昆虫食がゆっくりと普及しているようだが、このほどタイカレーに仕上げた「昆虫がおいしい カイコのカレー」が発売されたという。1缶に31匹分のカイコさなぎが入っており、うち8匹は姿煮、残りはパウダーである。かつてカイコは繭で日本経済を支えていたが、今度は身をもって私たちの食生活を助けてくれるのだろうか。
鳥取市鹿野町鹿野の鹿野城跡公園に「原田輝子彰效(しょうこう)之碑」がある。
今や養蚕の普及に貢献した人なんぞ顧みる人はほとんどいないが、顕彰碑はけっこう各地に残っている。このブログでもアーカイブ「養蚕業の普及功労者」で紹介したことがある。輝子さんはどのような業績を残したのか。説明板を読んでみよう。
明治の初期、生糸の需要が高まり、県でも養蚕を盛んに勧めた。輝子はこの養蚕振興策に呼応して、自ら桑苗を植え、桑葉を採って蚕を飼い、繭を取ることを実践しながら、養蚕が有益であることを説き、さらに製糸や織物の技法まで教えたので、養蚕はこの地域に広く普及して昭和初期まで主要な産業になった。この養蚕を振興した輝子の功績をたたえる碑です。
輝子は寺内の神職飯田家に生れ、国学を学んで和歌に優れ多くの歌が残されている。医師原田則寛(のりひろ)(青谷町山根)に嫁ぎ、のち夫と共に大工町に居住し、明治二九年(一八九六)五九歳で没した。
鹿野町 鹿野町教育委員会
養蚕業、製糸業、織物業と、産業振興に尽力した地域の功労者であることが分かる。しかし、ここで注目したいのは、輝子さんの実家である。飯田家は加知弥神社の神職であった。お父さまは飯田秀雄、お兄さまを飯田年平(としひら)といい、二人とも国学者、歌人として知られた人だ。
秀雄は本居宣長の後継者、本居大平(おおひら)のもとで学んだ国学者で、神仏分離運動の活動家でもあった。年平は明治新政府に出仕し、神祇大録などを務めた。録は神祇省の四等官に相当する。廃仏毀釈運動にもかかわったようだ。
年平は加納諸平(もろひら)、石川依平(よりひら)とともに「三平」と並び称される歌人であった。このような環境に育ったから、輝子さんも歌をよくし、活動家としての素質も備わったのだろう。
聞くところによれば、近世後期には神職の社会的地位が相対的に低かったとのこと。ならば、神仏分離から廃仏毀釈の流れは階級闘争だったと言えよう。養蚕をはじめとする殖産興業も、輝子さんなりの闘争だったのかもしれない。