「あじさい寺」として親しまれているお寺は全国各地にある。境内を何千もの花々が彩り、訪う人の目を楽しませてくれる。私が訪れたのは梅雨入り前の初夏。それほど咲いてはいないが、ところどころに瑞々しい装いを見ることができた。ここは作州津山の長法寺。文学碑のあるお寺としても知られている。さっそく見学させていただこう。
参道を進むと大きな銀杏の木が見えてきた。
津山市井口の長法寺に「薄田泣菫詩碑」がある。
巨大なあまりに巨大な銀杏で、カメラに収まらない。今はまさに鮮緑の季節。紫陽花の参道も大銀杏も色調に大差ないが、秋には輝くような黄色の大木が出現するのだろう。碑に刻まれた詩を読んでみよう。
公孫樹下にたちて(一部)
泣菫
銀杏よ、汝常磐木(ときはぎ)の
神のめぐみの緑り葉を
霜に誇るに比べては
何等(いかに)自然の健児ぞや
われら願はく狗児(いぬころ)の
乳のしたゝりに媚ぶる如
心よわくも平和(やはらぎ)の
小さき名をば呼ばざらむ
絶ゆる事なき戦ひに
馴れし心の驕りこそ
ながき吾世の存在(ながらへ)の
栄(はえ)ぞ、価(あたひ)ぞ、幸(さいはひ)ぞ
格調高い文語定型詩だ。かつては文学青年に大人気で暗誦できる人もいたという。公孫樹の生命力に私は生きる力をもらった。世の喧騒を超越したかのような存在感こそ私の誇りなのだ。
明治34年10月29日、泣菫は津山駅(今の津山口駅)に降り立った。京都の下宿先でお世話になった姉さん、竹内文を訪ねてきたのである。文さんは津山藩士の娘であった。泣菫が長法寺の大銀杏に心動かされたのはこの旅のことである。
境内にはもう一つ「薄田泣菫詩碑」がある。書は第251世天台座主、即真周湛(つくましゅうたん)猊下である。先程と同じく「公孫樹下にたちて」の別の一節が刻まれている。読んでみよう。
公孫樹下に立ちて
薄田泣菫
ここには久米の皿山の
嶺(いただき)ごしにさす影を
肩にまとへる銀杏の樹
向脛(むかはぎ)ふとく高らかに
青きみ空にそゝりたる
見れば鎧(よろ)へる神の子の
陣に立てるに似たりけり
美作を代表する歌枕である「久米のさら山」を詠み込み、視線を青空に映える大銀杏に移していく。その姿は鎧をまとった神の子だという。最近のRPGのモチーフになりそうなイメージだ。すぐ近くに鐘楼がある。立札があるが何だろうか。
長法寺境内に「田岡嶺雲ゆかりの鐘」がある。嶺雲と言えば藩閥政府を批判した言論家で、次々と発禁処分を受けた強者である。津山とどのようなゆかりがあるのだろうか。説明を読んでみよう。
當山五世昭僧正は明治三十三年、一生を終るまで凡そ三十有五年の間、夜の明けるまで必ず百八を撞いたといわれる。当時の津山人はその鐘の音で起き出で鐘を聞いて旅立ったといわれる。明治二十九年津山中学教師として赴任した若き文豪嶺雲は鐘の音に夏の夜の明け易きを怨み断腸の思いで津山を去ったが、一生涯鐘の音は彼の脳裏にしみ込んでいた。その鐘は大東亜戦時中、供出、現在の鐘は昭和三十三年再鋳したものであります。
津山中学は現在の津山高校である。この学校の漢文教師だった嶺雲が「断腸の思い」で津山を去ったという。何か事情がありそうだ。自叙伝である『数奇伝』十一「銷魂記」には次のような一節から始まる物語がある。
夢のやうに果敢ない光を手頼(たより)に生きる、月見草のやうな女であつた。
嶺雲は地元の芸妓と懇意になり妊娠させるが、このタイミングで女の身請け話が進んでしまう。嶺雲は失意のうちに津山を去ることとなる。明治三十年のことであった。その翌年、女から男児が生まれたとの手紙が届いた。それは次のように書かれていた。十七「生のひこばへ」より
「明けやすき夜を其声に恨みし長法寺の暁の鐘を、添乳の枕に悲しく聞き申候」
明治三十四年(1901)、北清事変の従軍記者として中国に渡ることとなった嶺雲は、子どもに会いたい一心で津山にやってきた。
別れる頃には、小児は早や幾分か我に馴染んで、吾が膝近くへ寄るやうになつてゐた。血縁に関する一種の神秘をおもうた。
その章の最後には、次のような一文がある。
長法寺の暁の鐘に夏の夜の明け易さを怨みしも、今は夢なれや。
嶺雲も女も長法寺の鐘に夜明けを感じていた。確かに「田岡嶺雲ゆかりの鐘」である。その鐘も大東亜戦に出陣し、今や二代目だ。
そういえば私が津山に暮らしていた頃、午後六時には決まってお寺の鐘が鳴っていた。宴会場の津山鶴山ホテルに行く道すがらに聞いた。津山の鐘の音と夕暮れは、私にとって忘れえぬ音風景である。嶺雲と女にとっても、二度と帰らぬ音風景であったに違いない。