例えがよくないが、ドコモがauとソフトバンクの草刈り場だったように、備前児島は織田勢と毛利勢、そして四国の三好勢の草刈り場だった。戦国時代がビジネスマンに人気になのは、販路拡大に奔走する自らを戦国武将と重ね合わせているからだろう。本日は、戦国最前線に立っていた、マイナーだが血筋のよい武将の話である。
岡山市北区船頭町の妙勝寺に「能勢修理大夫頼吉の墓」がある。
あまりにもローカルな武将で、どのような活躍をしたのか知らない。調べてみると、次のような文章に出会った。『備前軍記』巻第4「児島本太城合戦五流山伏の事」より
能勢修理大夫頼吉といふ者墓岡山府下妙勝寺にあり。是は本太の城主の修理が子にて、宇喜多の臣となりしなるべし。此能勢といふは多田満仲朝臣の末流多田入道頼貞といふ者此国にありて、建武の乱に宮方にありて始終心を不変して足利家の為に自害せしとこゝに言伝ふ。太平記にも八幡合戦に其名見えたり。此入道の墓は浜野村松寿寺にあり。其子多田太郎頼仲(一には吉仲)家号を改めて能勢と称して武家にしたがふといふ。此頼貞はたゞ多田入道といひ伝へて呼名等しれず。此修理も此入道の末孫なるべし。
『備前軍記』は江戸中期に岡山藩士が書いた戦記物語である。まず、修理大夫の墓が岡山城下の妙勝寺にあることを示し、次に、本太城主の能勢修理の子が修理大夫頼吉で、宇喜多氏の家臣となったと説明している。父子の名前が似ているので、少々ややこしい。
本太(もとぶと)城は倉敷市児島塩生にある城で、元亀2年(1571)に大きな合戦があった。児島南部の四宮氏と讃岐の香西氏の連合軍が城を攻めてきたが、守備していた能勢氏が奇跡的な逆転勝利を収めたという。ただし「其時の城主誰といふことをしらず」とも記しており、おそらく城主は能勢修理であろう、という程度の話である。
『備前軍記』には、能勢という武将が3つの場面で登場する。永禄10年(1567)の明禅寺合戦における能勢修理、元亀2年(1571)の本太城合戦における能勢修理、天正9年(1581)の八浜合戦における能勢又五郎である。これらすべてを能勢修理大夫頼吉の事績とするのが、『岡山県歴史人物事典』などに記載の一般的な解釈だ。
岡山城下の妙勝寺は、松寿寺との争いがあったが、宇喜多直家が頼吉に命じて和解させ、伽藍を整えたと伝えられている。また、頼吉と同時代の能勢本宗家第23代頼次は、本能寺の変に際して明智に味方したため、逃亡生活を強いられる。この時の潜伏先が妙勝寺だった。その後、頼次は関ケ原での戦功により、能勢の地に復帰し能勢妙見山の開基となる。同族が結んだ縁である。
頼吉が宇喜多氏のもとで活躍したのは確かだが、本太城合戦での働きには異説がある。この合戦は四宮氏・香西氏VS能勢氏というローカルな視点だけで理解はできない。しかも、本太城主は能勢氏ではない、という。そう解説するのは、今治市村上水軍博物館のH28特別展「村上海賊vs戦国大名ー村上海賊の「外交」と戦いー」図録である。
これによると、本太城を舞台にした合戦は二度あった。第一次合戦は永禄11年(1568)のこと。毛利氏配下の能島村上氏の勢力下にあった本太城には、嶋吉利が城主として守備していた。瀬戸内の海上支配をねらう三好氏配下の香西氏の攻撃があったが、これを撃退する。大きくは毛利氏の勢力下にあったのである。
第二次合戦は元亀2年(1571)のこと。本太城を村上水軍の嶋吉利が守っているのは変わらないが、対立の構図は大きく変化していた。大友氏が毛利氏包囲網(尼子氏、浦上氏、三好氏)を築くことに成功し、能島村上氏もこれに呼応していた。この状況を打破すべく、小早川隆景を主将とする毛利勢が本太城を奪取したのである。
伝聞や推測によって記述されている『備前軍記』の説に対して、博物館が描くストーリーは、村上氏や毛利氏などの一次史料を用いているので信憑性は高い。もしかすると、『備前軍記』が伝える四宮・香西連合軍の本太城攻めは、元亀2年ではなく永禄11年の第一次合戦ではなかったのか。では、本太城主とされる能勢修理とは何者だったのか。修理大夫頼吉と同一人物なのか?
謎は残るが、『備前軍記』の引用部から、能勢氏が多田源氏の流れを汲む南北朝期以来の名族であることが分かる。多田源氏は清和源氏2代目の源満仲(多田満仲)の嫡男頼光の流れを汲む。後に嫡流の座を占め、頼朝を輩出したのは、満仲の三男頼信の流れである。
岡山市南区浜野一丁目の松寿寺に「多田入道頼貞墓碑殉死従士の碣」がある。多田頼貞と殉死した者たちの墓である。
頼貞は多田源氏の一員で、南北朝期には南朝側で戦った。『太平記』巻第二十「八幡炎上の事」に登場する「多田入道」が頼貞のことだ。どのような人物なのか。廟堂の前にある石碑には「勤皇の士で清和源氏の嫡流多田入道頼貞」と刻まれている。嫡流と言えるほど家格が高いわけではないが、満仲の嫡男の流れだという誇りが込められているのだろう。
もう一つの石碑(堂の左側で写っていない)には、次のように記されている。
頼定延元三年山城八幡に戦ひ勇武抜群なりしも戦ひ不利興国元年伊予に細川氏と戦ふ敗れて備前浜野に隠屯近邑十七郷を統従す尊氏備前守護職赤松則村兵三百をして攻め来らしむ頼定之れを撃破す赤松勢五百騎再び来攻頼定敗れ主従九人牧山村中野に隠れる事数年浜野に帰り近郷を再統従す尊氏頼定の孤忠に感じ降伏を勤むるに摂津旧領及び備前十七郷を以ってす頼定曰く祖先従来陪臣の禄を食まず皇軍微々不振は天運末会のためなりと使を遣し将軍の厚意を謝し児等若し将軍に仕ふるとせば宜しく氏を能勢と改むべしと興国四年八月十二日屠腹従者七人是れに殉ず
分かりにくいので年表にしてまとめよう。
延元三年(1338)
(南朝)北畠顕信 VS 高師直(北朝)○
興国元年(1340)
(南朝)多田頼貞 VS 細川氏(北朝)○
○(南朝)多田頼貞 VS 赤松則村(北朝)
(南朝)多田頼貞 VS 赤松則村(北朝)○
尊氏、頼貞に降伏を勧める
興国四年(1343)8月12日 多田頼貞ら自害
頼貞は尊氏から領地で寝返りを誘われたが、「多田家は祖先以来朝廷に直接お仕えしており、尊氏なんぞの陪臣に俸禄をもらうことはない。我が南朝が不振なのは運が尽きているからだ」と言った。使者を尊氏のもとへ遣わして厚意に感謝し、子らに向かっては「もし尊氏に使えるならば名字を能勢と改めよ」と言った。
そういうわけで、子の頼仲は名字を能勢と改め、新時代を生き抜くこととなった。その子孫が前半で紹介した能勢頼吉なのである。「清和源氏の嫡流」という武士の名門中の名門はどこに行ったのかと思ったら、備前岡山の地で活躍していたのだった。