中世の武士は本貫地を名字として名乗った。一所懸命の武士にとって土地は命がけで守るものであった。土地の名を名乗ることは誇りでもあっただろう。
岡山市郡(こおり)に「飽浦(あくら)三郎右衛門の墓」がある。
郡という地名は,古代の児島郡の中心地であったことによるものだ。歴史ある土地ゆえか,中小路,西小路,戸上小路などの地名が伝わり,南小路と呼ばれているところに,飽浦三郎右衛門信胤(のぶたね)の墓がある。小路が迷路のように続いている上に,案内板がないので見つけにくい。
飽浦信胤は,源平藤戸合戦で戦功をたてた佐々木三郎盛綱の一族である。南北朝期に活躍した武将で,はじめ北朝に味方したが,中途で南朝方に転じ,瀬戸内海の海上勢力を掌握したという。
名字として名乗る「飽浦」は郡の東隣の地名でもある。信胤は,郡と飽浦の境にある215mの高山に城を築き本拠とした。その城に郡の町は守られていたのだ。武将の墓には新しい花が手向けられていた。地元で愛される武将である。
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