武将が味方を裏切るのには相当の事情がある。生死を左右する重大な決断である。これから話をするのは,恋ゆえに北朝から南朝に走った武将,飽浦信胤(あくらのぶたね)の物語である。
岡山市の飽浦(あくら)と郡(こおり)の境に「高山城跡」がある。
案内の標示がないが送電線の鉄塔保守のための道を登ると頂上に着く。頂上に写真のような祠があるが,荒れているうえに文字が刻まれていない。「瀬戸内海国立公園 高山 211M」という木札が落ちているだけだ。昭和40年6月2日の山陽新聞の特集記事『古戦場』③「高山城跡」で,記者の登城記を読んでみよう。
頂上の城跡への道はかなりけわしく難攻不落の城だったことを思わせる。雨に洗われた緑が目にしみるように美しかった。頂上に残るくずれた石がきは本丸跡。ホコラが一つ立っていた。わずかに恋物語りをとどめているかのようだ。記録にはないが土地の古老は信胤とお妻(さい)をまつったものだという。
飽浦信胤は,京に攻め上る足利尊氏に味方し武功があった人物である。お妻の局は,尊氏の臣である高師秋の愛人で「見目貌(みめかたち)無類、其品(そのしな)賎(いやし)からで、なまめきたる女房」であったという。師秋は伊勢の守護とにして任地に赴くことになったが,お妻が家からなかなか出て来ない。三日待ってやっと出てきたお妻を連れて,はずむ思いで伊勢に向かった。
ところが,勢多の橋まで来た時,突風が吹いてお妻の乗った輿のすだれが吹き上がった。すると,びっくり。中に乗っていたのはお妻ではなく,腰の曲がって歯のない八十歳くらいの老尼だった。師秋は怒って京へ引き返したが,お妻の姿はすでに屋敷にはなく,飽浦信胤と駆け落ちした後だった。それ以後,信胤は南朝に味方したという。
『太平記』巻第二十二の伝える信胤の物語は,「折(をり)得ても心許すな山桜さそふ嵐に散(ちり)もこそすれと歌に読(よみ)たりしは,人(ひとの)心の花なりけりと,今更思知(おもひしつ)ても,浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。」と結んでいる。
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