「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け」 気丈な後鳥羽上皇は,配流の地でこう詠んだ。和歌の名手にして武芸も多才,豪奢な生活を支える広大な荘園と,知・体・財の三拍子そろった人物であった。ただ政治的な判断を誤ったことで,自らの人生を変えるとともに,歴史をも動かしてしまった。
倉敷市木見に「頼仁親王御陵」がある。
下電バスの郷内農協前―黒谷線の停留所が目印となる。父・後鳥羽上皇に連座して備前児島に流されたのが冷泉宮頼仁親王であった。『吾妻鏡』承久三年七月二十五日条には次のように記されている。
冷泉宮備前の国豊岡庄児嶋に遷らしむ。佐々木の太郎信實法師武州の命を受け、子息等をしてこれを守護し奉らしむと。阿波宰相中将(信成)・右大弁光俊朝臣等配所に赴くと。
親王の児島在住は27年の久しきに亘り,47歳で薨去された。諡号は陰徳光院という。近くの五流尊瀧院に歌碑がある。
この里に われ幾年を 過ごしてむ 乳木の煙 朝夕にして
乳木の煙とは,護摩木を焚いた煙である。五流尊瀧院は修験道の総本山である。
一時は幕府の新将軍として迎えられる可能性のあった親王は,どのような思いで護摩焚の炎と煙を見つめていたのだろうか。親王が中興したこの寺院には,今も多くの人が参詣している。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。