江戸幕府は集団指導体制であった。将軍や大老ではなく,4~5人いた老中の役割に注目したい。個人のリーダーシップが優れている場合も魅力的だが,合議により進む政治も安定感があってよい。
豊島区巣鴨5丁目の本妙寺に譜代大名・久世氏の墓地がある。
久世氏の紋は「久世鷹の羽」である。幕末に活躍した老中・久世広周の墓もここにある。戒名は「自護院殿儉徳忠山日秀大居士」と刻まれている。
久世広周は二度にわたって老中を務めている。一回目はペリー来航前から日米修好通商条約調印の時期にかけてである。この時,辞職の原因となったのは,大老・井伊直弼の断行した安政の大獄。広周は厳しい処分に反対していたという。二回目の老中は,直弼暗殺後に安藤信正と築いた集団指導体制である。この時,久世は老中首座を務めている。久世=安藤政権の特徴は公武合体策であり,和宮降嫁を実現させている。
さらに注目すべきは,第一回遣欧使節(正使:竹内下野守保徳)の派遣である。任務は,江戸・大坂,新潟・兵庫の開市・開港を延期することであり,イギリスを始め各国の承認を得ることができた。国内情勢に配慮した適切な処置であった。
広周の墓には「下總國關宿城主 従四位下前拾遺補闕兼大和守源朝臣久世廣周之墓」とも刻まれている。拾遺補闕とは,君主を助けてその過失をいさめ補う役割,つまり侍従の唐名である。激動の時代に現実的な対応の出来る,力量ある政治家であった。
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