大都市は平地に形成されることが多いが神戸は別だ。起伏の多いこの町の発展は神戸港の賜物だ。現在は沖へ沖へと拡張して立派な港湾施設がつくられているが,今日は港の歴史をさかのぼり,神戸港発祥の地を訪ねることにしよう。
神戸市兵庫区島上町2丁目の築島来迎寺に「松王小児入海沚」の碑と「松王丸の墓」がある。
港を改修するに当たって次のような悲しい話があったと伝わる。
5万人の人夫による長い工事のすえ、海面に30町ほどの埋め立て地が姿をうかべはじめていた。ところが、ある日、突然はげしい大風と高い波があたりをおそった。せっかくの築島は、一夜にして姿を消してしまった。占いによると、海の底の龍神に、30人の人間を生きながら人柱としてささげなくてはならない、ということであった。そこで平清盛は、ひそかに30人の旅人をとらえはじめた。とらえられた旅人は自分の運命を知り、声をあげてなげき悲しんだ。いよいよ30人の人々を、海の底に沈めようとした時、ひとりの少年が清盛の前に進み出てきた。それは、17歳になる松王丸であった。
「清盛さま。人柱など何という罪ぶかいことでしょう。あの人たちの泣き声は、私の胸をひっかくようです。どうぞ30人のかわりに私ひとりをお沈めください。そうすれば、龍神さまも、私の心をおくみになって、島の完成をお許しくださるでしょう。」
1161年7月13日、石の箱に入れられた松王丸は、沈んでいった。その後、工事は順調に進み、ついに築島は完成したのである。
松王丸は,讃岐国の田井民部(中田井民部,中井民部,大井民部とも)の子(孫とも)であり,清盛に侍童として仕えていた。時の二条天皇は,この話に大いに感動され,松王丸の菩提を永く弔うため来迎寺を建立されたという。
寺の近くに中央市場があり,関連の店舗が軒を連ねている。有数の貿易港だとか貨物取扱量が云々と大きなことばかりが目立つが,ここは庶民の暮らしを支える港でもある。神戸港の恩人は,これからも港の発展を見守ってくれるのだろう。
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