戦争は人の命を奪うものだから惨事に違いないのだが,源平合戦ほど古くなると,ロマンにあふれ美しさ,切なさを感じさせるから不思議だ。若武者の死,愛する人との別れ…,現代の戦争映画にも通じるモチーフがそこにある。
神戸市兵庫区会下山町2丁目の善光寺に「蔵人大夫平業盛之塚」がある。
平業盛(なりもり)は清盛の弟である教盛の末子で,若くして出世していたが,一ノ谷の戦いにおいて花と散る。しかし,その力の強さは『源平盛衰記』によって次のように伝えられる。
蔵人大夫業盛は今年十七に成給ふ。長絹の直垂に、所々菊閉して、緋威冑に、連銭葦毛馬に乗給へり。御方には離ぬ、いづちへ如何に行べき共知給はざりければ、渚に立て御座けるを、常陸国住人泥屋四郎吉安と組で落、上に成下に成ころびける程に、古井の中へころび入て、泥屋は下になる。兄を討せじとて、泥屋五郎落重つて、大夫の甲のしころに取付て、ひかん/\としければ、大夫頭を強く振給ふに、甲の緒を振切。五郎甲を持ながら、二尋計ぞ被抛たる。去共不手負ければ、起上て業盛の頭を取。兄をば井より引立たり。十七歳の心に、よく力の強く座しけるにやと、人皆是を惜けり。
神戸市兵庫区松本通2丁目の願成寺(がんじょうじ)に「平通盛・小宰相の局五輪石塔」がある。
通盛(みちもり)は,前記の業盛の長兄で,小宰相(こざいしょう)という美しい妻があった。『平家物語』は通盛と身重の小宰相の美しくも哀しい話を次のように伝えている。「小宰相身投」の段を読んでみよう。
小宰相は夫の戦死を聞き次のように言った。
まことやらん、女はさやうの時、十に九つは必ず死ぬるなれば、恥ぢがましき目を見て、空しくならんも心憂し。静かに身身となつて後、幼き者を育てて、なき人の形見にも見ばやとは思へども、幼き者を見んたびごとには、昔の人のみ恋しくて、思ひの数はまさるとも、慰む事はよもあらじ。つひには逃るまじき道なり。もし不思議にてこの世を忍び過ごすとも、心にまかせぬ世のならひは、思はぬ不思議もあるぞかし。それも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、さむれば面影に立つぞとよ。生きてゐて、とにかくに人を恋しと思はんより、ただ水の底へも入らばやと、思ひ定めてあるぞとよ。
小宰相の乳母は涙を抑えて説得する。
いとけなき子をもふり捨て、老いたる親をも留め置き、これまで付き参らせて候ふ心ざしをば、いかばかりとか思し召され候ふべき。今度一の谷にて討たれさせ給ふ人々の、北の方の御思ひども何かおろかに候ふべき。いかならん岩木のはざまにても、静かに身身とならせ給ひて、幼き人をも育て参らせ、御様を替へ、仏の御名をも唱へて、なき人の御菩提をもとぶらひ参らせ給へかし。
しかし,見守る乳母がつい眠ってしまったのを見た小宰相は…
北の方やはら船端へおき出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、そなたの空とや思はれけん、静かに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天の戸わたる楫の音、折からあはれやまさりけん、忍び声に念仏百遍ばかり唱へ給ひて、「南無西方極楽世界、教主弥陀如来、本願あやまたず浄土へ導き給ひつつ、あかで別れし妹背のなからひ、必ず一つ蓮に迎へさせ給へ」と、泣く泣く遥かにかきくどき、南無と唱ふる声ともに、海にぞ沈み給ひける。
これを聞いた人々は次のように言った。
昔より男におくるるたぐひ多しといへども、様をかふるは常の習ひ、身を投ぐるまでは有り難きためしなり。されば忠臣は二君につかへず、貞女は二夫に見えずとも、かやうのことをや申すべき。
上の写真で手前から2つ目と3つ目に並んだ五輪塔が小宰相と通盛の塔である。手前の大きな石塔は,この寺の中興の祖で乳母・呉葉の義兄に当たる住蓮上人のものである。上人の石塔が傷んでいるのは阪神・淡路大震災によるものである。震災前は乳母・呉葉の塔も並んでいたのだが,今ここには見えない。
物語は切なく美しいものだが,現実世界はヒロイズムに浸っている場合ではなかったろう。それでも,人は物語を必要としている。自分を投影させて涙したいのだ。「真夏のオリオン」にではなく,街角の史跡にこそ号泣する準備はできていたのである。
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