信ずる者は救われる。信仰とはそういうものだ。信仰に科学はいらない。だが,由緒はあったほうがよい。歴史の持つ重みは一朝一夕には生じないからだ。
玉野市八浜町大崎に「與太郎(よたろう)神社」がある。
この神社は、足の神様として現在も多くの方の信仰を集めている。与太郎とは、八浜合戦の宇喜多方の大将・宇喜多基家のことで、神社の幕には「剣酢漿草(けんかたばみ)」紋が染めてある。剣酢漿草は宇喜多家の紋所だ。
毛利と宇喜多の争いが激化していた天正9年2月14日、病に臥せる梟雄・宇喜多直家が没する。毛利輝元に毛利両川という心強い叔父がいたように、宇喜多秀家には忠家という叔父がいた。翌年、穂田元清を大将として児島北岸に進出してきた毛利勢に対し、宇喜多忠家は子の基家を大将として、備前八浜で決戦を挑んだ。
宇喜多勢は懸命に戦うも、大将基家はついに武運が尽きる。『吉備の伝説』は次のように伝える。
基家は、武運つたなく脚をうたれて矢傷を負った。やっとのことで藁ぐろのかげに身をひそめ、村人には敵にきかれても口外するなと口止めした。しかし、結局みつけられて殺された。脚さえやられていなければこのような目にはあわなかったものを、まことに残念である、脚のわるいものは何とか助けてやりたいといい残した。
基家の戦死は天正10年2月21日である。大将を討ち取られた宇喜多勢だが、「八浜七本槍」と呼ばれる猛将の活躍で逃げ切ることができた。世に言う「八浜崩れ」である。勝ちに乗じた毛利勢は宇喜多方の八浜城(両児山城)を包囲したものの、秀吉の織田勢が備前に進出したとの噂を聞いて退いた。そして、いよいよ備中高松城の水攻めで雌雄を決することとなる。
戦国武将・宇喜多与太郎基家は足の神様となった。この神社には「與太郎せんべい」というお土産がある。「備前八浜」「與太郎社」の文字と剣酢漿草紋がデザインされている。素朴でおいしいお菓子だ。戦国の厳しさを今に伝える貴重なせんべいである。
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