忠臣か逆臣か,見る人の立場や解釈によって評価が分かれる。利己的な権力欲によって反逆することもあれば,君側の奸を除くという大義のために挙兵することもある。もっとも,自分のためだと称して反逆する者はいないから,その真意をどう解釈するかが問題となる。
仙台市青葉区新坂町の「荘厳寺山門」は「逆さ門」と呼ばれてきた。
この門は,伊達騒動の当事者・原田甲斐宗輔の屋敷門を移築したものと伝えられている。原田甲斐といえば,古典『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』では御家乗っ取りを企む悪人であるが,ドラマにもなった歴史小説では別の解釈がなされている。『仙台藩ものがたり』は次のように紹介している。
「勧善懲悪が当時の一般的な道徳論,兵部や甲斐を悪玉にすれば話として分かりやすかった」と東北大の平川新教授(50)=日本近世史=。兵部の藩政専横は否定できないが,「資料上,藩の乗っ取りまでたくらんだという裏付けは見つかっていない」と語る。
「大老酒井忠清と兵部との間には六十二万石分割の密約があった」として話を展開したのが,山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」である。刃傷事件を起こした甲斐は,実はその謀略を知り,身を盾にして防いだ忠心として描かれた。
しかし「甲斐が忠臣だったという資料的裏付けもまたない」(平川教授)そうだ。真相は三百三十年後の現在も,やぶの中である。
逆臣であるが故に「逆さ門」と言い伝えられてきたが,平成になっての調査により,「柱材の上下を逆さに,左右の位置を交換して建て直した」(現地解説板)ことが明らかにされ,門だけは汚名を雪ぐことができている。
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