麒麟も老いては駄馬に劣る。かつて名を馳せた強者も,日向に流され今や目が見えぬ零落した身。訪ねて来た娘に恥じて一旦は父であることを明かさなかったが,その後,里人の計らいで対面する。娘は父に屋島合戦での活躍を語ってくれるよう懇願する。父は娘を故郷に帰すよう里人に頼んで,錣引(しころびき)の武勇伝を聞かせる。そして,自分を弔ってくれるよう頼んで,娘に別れを告げる。
謡曲『景清』のあらすじである。シテは悪七兵衛こと平景清,ツレは娘の人丸。景清は能,浄瑠璃,歌舞伎,落語と様々に脚色された平家方の人気キャラクターだ。実像が明らかでないだけに様々な人物造形が可能だ。平氏を名乗るが平家一族ではなく藤原(伊藤)氏ということだ。
宮崎市下北方町に「景清廟」がある。下北方町区会が記す「景清廟縁起」を読んでみよう。
景清公と娘人丸姫の遺骸をまつる。回顧すれば公が壇の浦の渦中より脱して頼朝を亡さんと心膽を砕かれしも果さず遂に畠山重忠に捕えらる。頼朝は公の武勇非凡なるを惜しみ己に仕えむことを懇望す。公固く辞して直ちに両眼を抉りて曰く「此眼あらば貴公を殺さむの念常にやまず。然るに今は盲目たり。最早敵対する念なし」とここに於て頼朝の仁命により日向の勾當となり文治二年十一月下向あり。時に齢三十二才なり。此の地にあるや深く神佛を信仰し帝釈寺の再興,岩門寺,正光寺を建立せり。建保二年八月十五日行年六十二才にて没す。法名千手院殿景清水鑑大居士と称す。
謡曲では,つらい別れのあと娘人丸は故郷へ帰っていくことになる。しかし,この地の伝説では,人丸は父の許に留まっていたが,建永元年九月に父に先立って亡くなったという。境内には「孝女人丸姫之墓」と「景清公父母之慰霊塔」がある。親子の絆の深さを物語っているようだ。
また,「景清公使用御硯石」もある。確かによい形をしている。これを使って文を書いたとすると…,さらに物語は発展しそうだ。いや,ここは『景清』のラスト,子別れの場面で〆ることとしよう。
昔忘れぬ物語 衰へ果てて心さへ乱れけるぞや 恥ずかしや この世はとても幾程の 命のつらさ末近し はや立帰り亡き跡を弔ひ給へ盲目の 暗き所の燈火 悪しき道橋と頼むべし さらばよ留まる行くぞとの ただ一声を聞き残す これぞ親子の形見なる これぞ親子の形見なる