歴史上の人物が「公」という尊称で呼ばれるのは,地元の人々に慕われている証拠だ。今日は23歳の若さで亡くなりながらも,今も盛大に顕彰活動が続けられている戦国武将の話である。
三木市上の丸町の雲龍寺に「別所長治公・照子夫人首塚」がある。
時は天正六年,反織田方に踏み切った別所長治の籠る三木城を包囲するのは,播磨征伐を進める織田家の武将・羽柴秀吉。秀吉の兵糧攻めに対し,長治は毛利方の協力を得て補給路の確保に努めたものの次第に情勢が不利になる。1年10か月の歳月を経て,三木城内の兵糧が底を突いた。勝算のないことを悟った長治は意を決し,城主一族の自害と引替えに家臣や領民の助命を乞うた。これを承諾した秀吉は酒肴を城中に送り決意を称えた。長治は辞世を残し自害。天正八年正月十七日のことであった。
今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば (長治公)
もろともに 消え果つるこそ うれしけれ おくれ先立つ ならいなる世に (照子夫人)
長治の首級は秀吉の陣地から安土の信長の許に送られた。これを雲龍寺の七世・安室春泰和尚が持ち帰り懇ろに埋葬したのが,首塚であるという。領民にとっては命の恩人,尊敬に値する領主,名君であった。
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