人は神仏に様々なお願い事をするが,家運隆昌は重要なテーマである。とりわけ前近代において御家第一だった頃には,自分の名誉がかかった人生の目標であっただろう。
宇喜多家。戦国時代に台頭し,豊臣政権では五大老に数えられた大名家である。一気に戦国の雄となったのは梟雄・宇喜多直家,政権の中枢部に入り込んだのは貴公子・宇喜多秀家である。このように飛躍的に栄えた陰には,御家を滅亡の危機から救った先代の姿があった。
瀬戸内市長船町福岡に「宇喜多興家公の墓」がある。
興家は,直家の父,秀家の祖父である。興家の父・能家は浦上家に仕えていたが,ライバルの島村豊後守に倒されてしまう。子の興家が仇を討つ…かと思えば,そうではなかった。備前福岡史跡保存会の『備前福岡歴史物語』を読んでみよう。
興家は愚昧であるうえ臆病であったから,防ぎ戦うこともせず,妻と八郎を連れて城を落ち延び備後の鞆へ遁走した。
ほとぼりがさめた頃,興家は妻と八郎を連れて備前福岡へ戻り豪商阿部善定の許に奇遇(仮住まい)していたが,いつしか善定の娘と懇ろになり,春家,忠家の二子が生まれた。直家にとっては異母弟である。
この興家は,父能家のような武将としての覇気もなかったから,家の再興なども考えず,天文五年(1536)に,不運で世に認められないままこの地で死亡した。
ああ,情けなや…ではあるが,次の記述に注目したい。
興家が愚昧であったのは見せ掛けで,将来に備えて家族を守るために,愚鈍を装っていたのだということも考えられる。
とすると,深謀遠慮の智将ともいうべき人物である。しかし,子の八郎直家は善定の娘である継母との折り合いが悪く他所に移り住む。やがて実母の手引きによって浦上氏に召し出されて頭角を現していく。家を守ったのは,やはり一家の主ではなく妻であったのだ。
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