昨夏8月2日(日),車を走らせていると,作家の小川洋子さんが井上靖『天平の甍』の一節を朗読するのが聴こえてきた。FM番組Panasonic Melodious Libraryである。
間もなく一行は港にはいった。かつて三韓との交通華やかだった当時の殷賑さは偲ぶべくもないが,それでも蘆の間からは,林のよう に立ち並んでいる何百という帆柱が見えた。港と言っても,ここはもともと何本かの川の河口が一緒になった外海への出口で,潮と真水とがぶつかり合っている広い水域には,おびただしい数の大小の島や洲が散らばり,そこに密生している蘆は一間港湾全部を埋めているように見えていた。ここに出入する船は,その蘆の生い茂っている島や洲の間を通るわけだが,船着場の方から見ていると,蘆の間を滑って来るものとしか見えない。蘆の間には点々と沢山の澪標(水路標の杙)が立っており,その何本かには小さい鳥がとまっていた。その鳥の白さが,今日ここから遠く異郷に旅立って行く人々の眼にしみた。
天平五年の難波津の様子である。番組のHPでは「1300年近く前の日本や中国を舞台にした「天平の甍」。これを読むと、作者がまるでその時代を生きてきたかのような風景描写と臨場感です」と解説している。鮮やかな描写に誘われて現地に赴いた。
大阪市此花区伝法三丁目に「澪標(みおつくし)住吉神社」が鎮座する。
澪標とは,引用文中にあるとおり水路標のことで,このような形をしている。
祭神は社名からも住吉大神であるが,なぜ社名に澪標を冠するのか。由緒書は次のように解説する。
古来,この地方は,浪華八十嶋(なにわやそしま)として,風光明媚な場所であり,延暦二十三年(804年)に遣唐使一行が,この島の美しい景色に感じ入り,一泊することと成った。
その時島の住民は,遣唐使一行の今後の長い航海の安全と,無事に任務を終えて帰還出来る様にとを祈り,住民同志の合力により島の一角に祭壇を設け,住吉の大神をお祀りし,この事が機縁となって祭壇跡に祠を建て,それと共に,出発の際の約束どおり,一行の帰路を迎えるのに便利な様に「みおつくし」を建てた。
これが現在の澪標住吉神社の社名と当社の御神紋「みおつくし」(又は,みをつくし)の由来である。
「みをつくし」とは「身を尽くし」であり,古歌では掛詞として用いられた。小倉百人一首二十番,元良親王の秀歌である。
わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ
小説に和歌に,叙情的に描かれた澪標は,大阪市の市章にも使われている。明治27年の制定である。また,旧細江町(現在は浜松市)の町章も同じようなデザインだった。こちらは万葉集巻第14(3429)で「等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思(とほつあふみ いなさほそえの みをつくし)…」と詠まれていることによる。
航路の安全を示すための澪標であったが,神社としては「人生の行路の指針」としての意味をもたせているとのことだ。実物はどこにもないのだろうか。由緒書の最後に次のように紹介されていた。
「澪標」は,岡山県の,岡山市藤田を流れる倉敷川にも,数多く残っているようである。
こちらも訪ねてみよう。
岡山市南区藤田と旧灘崎町との間を流れる倉敷川で,4基の「澪標」を撮影することができた。3枚目の澪標には白い鳥がとまっている。写真は上流から下流へと並んでおり,地図は1枚目の澪標の位置である。
澪標のおかげで心身ともに旅ができた。身を尽くしても…,いや,そんなに力が入っていないゆるい旅である。
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