兵士は船で海を渡ったが,将軍は馬に乗ったまま海面を歩む。物語にリアリティは不可欠だが,荒唐無稽な話もないと面白みに欠ける。事実から最も遠い創造力の産物が実際の地図上に置かれた途端に,それは伝説と呼ばれるようになる。
瀬戸内市長船町土師に「馬塚」がある。国府小学校前から馬塚橋を渡って少しの墓地の中に位置する。
『源平盛衰記』弥巻第四十一の「盛綱渡藤戸児島合戦附海佐介渡海事」のうち下線部の物語を読んでみよう。
昔備前国に、海佐介(あまのさすけ)と云けるこそ兵の聞え有ければ、西戎を鎮められんが為に、官兵を指副られたりけるに、官軍は船に乗けれ共、佐介は馬に乗ながら、先陣に進て海上を渡る。程なく賊徒を責随へて、又馬に乗ながら海の面を歩せて本国に帰りけるが、備前の内海にて、海鹿(いるか)と云魚に馬を誤たれたりけれ共、馬少もひるまずして、佐介を陸地に著て、後に馬は死けり。其所に堂を立て孝養しけり、馬塚とて今に有。時の人云、馬は竜也、佐介直人に非ずとぞ申ける。佐介は波上を歩せて西戎を従へ、盛綱は水底を渡して平家を落す。
意訳してみよう。むかし備前国に海佐介(あまのさすけ)という名の知れた強者がいた。西の敵を鎮めるため兵を与えたところ,兵士たちは船に乗ったが,佐介は馬に乗ったまま先陣を切って海上を渡って行った。ほどなくして賊徒を従えて,また馬に乗ったまま海面を歩いて本国に帰ってきたが,瀬戸内海でイルカという魚に馬を傷つけられてしまった。しかし,馬は少しもひるまず佐介を陸地に上げてから後に死んだ。その場所にお堂を建てて供養し,「馬塚」として今に残っている。当時の人は「馬は龍だ。佐介はただ者ではない」と言ったものだ。佐介は波の上を歩いて西の敵を従え,(佐々木)盛綱は海の底を歩いて平家を破った。
かつては牛馬の守護神として里人の崇敬を集めていたようだ。しかし,写真を見てお分かりの通り,これは横穴式石室の古墳だ。馬塚(まつか)古墳という直径約25m,石室は全長8.1mという比較的大きな円墳である。6世紀後半から7世紀前半のものだそうだ。
石室は北向きに開口しており,墳丘に立つと眼前に穀倉地帯が広がる。この古墳に葬られたのは,かなりの有力者だったに違いない。ただし,自分の墓が馬のものとされるとは思ってもみなかっただろう。
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