曾我物語,伊賀越,忠臣蔵とくれば日本三大仇討である。いずれもドラマティックな展開で後世の人々の心を惹きつける。劇化すれば美しい物語であっても,史実では陰惨な出来事に違いない。仇討は人間の情念の塊りのような事象である。
尼崎市東本町一丁目の辰巳八幡神社の境内に「辰巳渡仇討址」の石碑がある。昭和大典記念として鍵屋という運送業を営んでいた井上伊三郎氏によって建てられたものだ。
傍の神社の案内板は仇討について説明していない。そこで,石碑側面の文字を読むことにしよう。
慶長八歳次癸卯九月念一日豫州藤
堂家臣髙畑壽教婦槇女與僕端四郎
復亡夫讎自刄其忠貞即義使人感奮
慶長八年とは1603年。歳次は年のこと。念は廿と同じ意味なので9月21日。豫州藤堂家とは今治城主の藤堂高虎。では,意訳してみよう。
慶長8年“みずのとう”の年9月21日,伊予今治・藤堂高虎の家臣,高畑寿教の妻・まきは,家来の端四郎の助太刀によって,亡き夫の仇を討ち自刃した。その忠義と貞節はすなわち義理を重んじる心であり,人の気持ちを奮い立たせた。
『尼崎地域史事典』によると仇の名は「佐和新九郎」というそうだ。石碑にも手元にもこれ以上の情報がない。タイトルには書いてしまったが,発端が今治での出来事かどうか,実は不明だ。どのような事情があったのか知る由もないのだが,当事者の心中如何許りかと察する次第である。
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