世の中にはいろいろな記念日があって,その由来を知るのは楽しみの一つだ。苦しい語呂合わせでの関連付けがまま見られるが,本日の紹介は由緒正しい記念日だ。5月1日の「日本赤十字社創立記念日」である。
時は明治10年(1877),2月に勃発した西南戦争は官薩両軍に多くの死傷者を出していた。それを見かねた元佐賀藩士で元老院議官の佐野常民は,欧州の赤十字事業に倣い傷病兵を敵味方の区別なく救うため,5月1日に「博愛社」の設立を熊本の征討総督有栖川宮熾仁親王に請願した。
尼崎市南城内に鎮座する櫻井神社に「日本赤十字社発祥の地」のプレートがある。
写真右手は,尼崎藩最後の藩主である櫻井忠興の事蹟を称えるため,もと尼崎藩士で尼崎町長を務めた実業家,久保松照映が同志とともに建てた紀念碑である。旧尼崎城の石材を使用しているとのことだ。(左手の「創建百年」は櫻井神社創建100年のことで,忠興の孫・忠養の揮毫と桜井桜の紋が刻まれている。)
この石碑は,明治維新という激動をうまく乗り切った殿様を,元藩士が偲んだだけのものではない。櫻井忠興の事蹟とは,日赤の前身「博愛社」の活動に深く関わり,その発展に尽くしたことである。日本赤十字社兵庫県支部『博愛社誕生』に紹介されている明治35年10月29日付けの読売新聞の記事「日本赤十字社創立の由来(副社長子爵大給恒氏談)」を読んでみよう。
櫻井はいわば殿様格の人でありながら,困難を顧みず戦地に臨んで病院を創立しようというのは,向う見ずと言って良いか膽力があったといって良いか知らぬが,とにかく傷病者は日々なかなか多く,殊にコレラが蔓延して到る所流行するといういやな所へ出掛け,病院の事務を引受け医者を雇うて傷病者に治療を受けさせ,仕馴れぬ仕事に従事してともかくも成功したのは,至極褒むべき事だ。
それも櫻井その人に大野心でもあったなら格別,実に正直律義一辺の殿様で,人のいやがる所へ行って責任を帯びて人の嫌がる仕事を仕遂げただけはエライもので,赤十字社員たるものは決して櫻井の功を忘れてはならぬ。
戦地で傷病者を助けるという,国境なき医師団かAMDAか,いやまさにこの行為が「人道」を理念とする赤十字である。西南戦争の折に佐野常民と大給恒の尽力で「博愛社」ができたが,櫻井忠興はこのことを聞くやすぐに協力を申し出て,東京麹町富士見町の自邸を事務所として提供した。そしてその後,自ら九州に赴いて傷病兵の救護に励んだという。
かくして赤十字社は生まれた。ただ,どこで生まれたかは意見が分かれる。日赤の熊本県支部は当然,熊本が発祥の地だとPRしている。だが,千代田区観光協会は櫻井忠興邸の跡地を「日本赤十字社発祥地」として紹介している。では,尼崎における「発祥の地」とは…,草創期の功労者ゆかりの地だという以上の意味はない。
それにしても立派な殿様ではないか。忠興は明治元年に櫻井と改姓する前は松平といった。そう徳川家と同じ係累に連なる一族である。上層の者は維新期の変革の嵐の中で保身に走ってしまいがちだが,忠興は自らの労をいとわず人を救った。これが「博愛」の精神である。忠興とともに活躍した大給恒(おぎゅうゆずる),彼もまた松平乗謨(のりかた)と名乗る大名で,老中にまで出世した人物だった。
櫻井氏といい大給氏といい,おそるべし松平一族。身分の高さと社会的貢献度が比例している。ノブレス・オブリージュとは,彼らのような行為をいうのだろう。
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