天子南面す,という都城の構成も,我が家が南向きなのもおそらくは同じ理由だろう。鼎の軽重を問うような不遜な主張をしているのではない。北半球では陽射しが南から入るというだけのことだ。
前回紹介した神武天皇の御上陸地の近くに道標がある。私たちも御幸(みゆき)の跡をたどって北に向かい,御蔭山(みかげやま)に登ることとしよう。
福山市柳津町の御蔭山,今の竜王山に「御蔭山高島宮旧趾」がある。車でアクセスできるため,かつての苦労は偲べないが,ぐんぐんと高みに登れて快適だ。
吉備高島宮の位置は諸説あって,柳津村吉備高島顕彰会の『高島宮史蹟』(昭和14年発行)では,次の9か所が紹介されている。
1 備前国児島郡宮浦高島説
2 同国上道郡高島説
3 備中国小田郡神島高島説
4 備後国沼隈郡田島高島説
5 同国同郡水呑,田尻,蓑島高島説
6 同国同郡高須高島説
7 同国沼隈郡浦崎戸崎高島説
8 同国同郡鞆津高島説
9 同国同郡柳津郷御蔭山高島宮説
もっともこの論争は皇紀二千六百年の昭和15年に1の備前国児島郡宮浦高島説が公認されて決着するのだが,この地でも地元の総力を挙げて熱心な検証,誘致活動が行われた。同書には次のように記されている。
此の山頂から海の眺めは,全く国立公園を眼下に展開したパノラマで,近海の島々も手に取る様に見え,遠く四国の連山聳え,出帆,帰帆さながらの妙画で,神秘の霊境が自然に表はれると共に,昔は兵船を一望に眺め得るの海の要害地であり,又,名方の平野,穴の海平野も眺め得る山の要害地と共に崇高な山霊に打たれる聖域である事は,一度山巓を踏破する者が何人も感に打たれる所である。
南側が開けたこの山は確かに眺望がよい。天候と撮影技術共に好条件なら,よりよい写真になったはずだ。
カムヤマトイワレヒコは吉備高島宮で建国の準備をした。船を建造し武器,食糧を蓄えた。その期間は3年とも8年とも伝えられる。瀬戸内海を制するものは天下を制する。眼下に見る港との往来には苦労するものの,天下を睥睨するには好都合な場所だ。
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