三筆の一人として名高く,留学先の唐の文人から「橘秀才」とまで呼ばれた橘逸勢。彼は,死後,怨霊となった。彼がそうなったのは,冤罪事件によって配流され,結果として死に追いやられたからである。そして,その死にまつわるエピソードが後世の人の心を動かしていることを紹介しよう。
浜松市北区三ヶ日町本坂に「橘神社」がある。
藤原氏の他氏排斥事件「承和の変」により失脚した橘逸勢は,罪を得て伊豆へ配流となる。『日本文徳天皇実録』巻第一嘉承三年五月十五日条には,次のように記述されている。
追贈流人橘朝臣逸勢正五位下,詔下遠江國,歸葬本郷。逸勢者,右中弁從四位下入居之子也。爲性,放誕,不拘細節,尤妙隷書。宮門榜題,手迹見在,延暦之季,随聘唐使,入唐。唐中文人,呼爲橘秀才。歸來之日,歴事數官,以年老羸病,靜居不仕。承和九年,連染伴健岑謀反事。拷掠不服,減死配流伊豆國。初逸勢之赴配所也,有一女。悲泣歩從。官兵監送者,叱之令去。女,晝止夜行,遂得相從。逸勢行到遠江國板築驛,終于逆旅。女攀號盡哀,便葬驛下。廬于喪前,守屍不去。乃落髮爲尼。自名妙冲。爲父誓念,曉夜苦至。行旅過者,爲之流涕。及詔歸葬,女尼負屍還京。時人異之,稱爲孝女。
逸勢は配所の伊豆にたどりつくことなく,「遠江国板築駅」で亡くなってしまう。板築駅は橘神社の東方にあったらしい。橘神社には彼の墓がある。
橘逸勢には娘がいた。先に引用した文徳実録の記事の主役は,この娘である。逸勢が配所に赴く際に,娘は泣きながらつきしたがった。しかし,警固の兵士は許さない。娘は昼には動かず夜に父を追った。兵士もついにしたがうことを認めた。ところが,遠江の板築駅で父が亡くなる。娘は,とりすがって泣き哀しみ,その地に父を葬った。そして,娘は父の菩提を弔うためこの地に庵をつくり,尼となって妙冲と名のった。一途に父を弔う姿に道行く人は涙を流した。やがて,父の罪が許され都に葬ってよいとの知らせがあった。娘は父の骨を持って都に帰っていった。人々は娘を孝女と呼んで称えた。
上の写真の大きな石碑は「旌孝碑」といって,徳川家達題字,末松謙澄撰文の立派な石碑である。孝女・橘逸勢女の顕彰と,その遺跡を守った戸塚環海を称える内容となっている。右の石碑は三筆にちなんで「筆塚」である。
筆塚の隣には,比較的新しい観音像が参拝者を見守っている。「妙冲観音」である。ここは孝女・妙冲が庵を営んだ場所だとされている。
ここは,小さな神社だが,筆の上達を願う人,親の長命を祈る人,歴史に思いを馳せる人,様々な思いが凝縮されたパワースポットである。
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