落語家や歌舞伎俳優、あるいは茶道などの芸事には名跡という代々襲名していく名前がある。建造物という美しい作品を残す建築家にもそれがあった。「伊藤平左衛門」である。初代が1609年に名古屋城の築城に従事したことに始まり、以来十二代に至るまで堂宮大工として活躍してきた。今でも(有)伊藤平左ェ門建築事務所として各地の寺社建築、修理を行っている。
兵庫県揖保郡太子町鵤(いかるが)の斑鳩(いかるが)寺に「聖徳殿後殿」がある。後殿を奥殿ともいう。
この八角形の印象的な建物を設計したのが九世伊藤平左衛門で、法隆寺夢殿に似た擬古典的な造形である。明治43年2月に起工し大正3年に竣成した。登録有形文化財に指定されている。九世平左衛門は、擬洋風木造校舎の旧見付学校など文化財級の建造物を数多く残し、帝室技芸員に選ばれている。
大正5年には聖徳殿のご本尊を後殿にお遷し申し上げた。このご本尊について、「斑鳩寺略縁起」は次のように解説している。
御本尊は聖徳太子十六歳の尊像でお髪を植えさせ給ふにより『植髪の太子』と申奉る。太子十六歳の御時父君用明天皇御病悩にあらせられる砌り、太子は飲食を断って七日七夜の間、日夜柄香爐を捧げて御枕辺に立たせ給ひ、常行三昧と申す行法を遊ばして御病悩御平癒を深く神明仏天に祈り給ふた御姿で世に『御孝養の御姿』と申奉る。
御衣は往古より親王皇家より御寄進あらせられお召替へ奉るところで、現在お召しになっている御衣は、高松宮宣仁親王殿下の御寄進により昭和三十七年二月二十二日御召替されたものである。
太子町の太子山に太子山公園がある。頂上の広場には聖徳太子がお立ちになっている。
大和の斑鳩と播磨の鵤、法隆寺と斑鳩寺、法隆寺夢殿と聖徳殿後殿、そして聖徳太子への信仰と伝説化、さらには皇室からの保護。聖徳太子はいなかったとの議論により、最近の教科書では「厩戸皇子」と表記されているが、ここ太子町にいらっしゃるのは、まぎれもなく「聖徳太子」であった。
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