戦国の世渡りは難しかっただろうとつくづく思う。織田信長の家臣だったことは初めから勝ち馬に乗っているようなもの…いや、実のところまったく違う。信長の粛清をくぐり抜け、秀吉、家康へと吹く風をうまく読まねばならない。むしろ、最終局面で馳せ参じて大名に納まったほうが楽なのかもしれない。
倉敷市真備町岡田の倉敷市立岡田小学校の校庭に「岡田藩邸長囲炉裏」がある。子どもたちの砂場のようだが、岡田藩陣屋の唯一の遺構である。
岡田藩の伊東氏は1万343石で、石高からはやっとのことで大名になれたような印象だが、実のところ、なかなかの世渡り上手のようである。
初代藩主となる伊東長実は、祖父・祐元、父・長久の代から信長に仕えており、自身も秀吉の配下として活躍する。関ヶ原の戦いでは家康に味方しだが、大坂の陣においては豊臣方について敗戦。はい、ゲームオーバー、所領没収。そうなるのが普通だが、なんと大名として生き残っている。
それは、次のような事情があったからだ。『真備町史』の記述である。
秀吉の死後、徳川家康の威望日々に盛んとなり、秀吉の寵臣石田三成は深く之を憂えた。ひそかに毛利輝元・上杉景勝と結んで之を除く事を謀った。景勝が先ず領地会津に帰り、軍備を修めて家康に抗した。家康は自ら軍を率いて景勝の討伐に出立しようとした。その三日前に、長実は堀田図書と大阪を発して伏見に赴いて、家康に謁して送別し、ひそかに三成に異図ある事を告げた。家康は大いに喜んで厚く之を遇して返した。
家康は部将を伏見に止めて三成に備えて出発した。三成は果して其の虚に乗じて毛利・宇喜多・島津・小早川・小西・大谷等西国の諸大名を擁して兵を挙げた。長実は直ちに、家臣木崎弥衛に命じて三成の挙兵を家康に注進した。家康は大いに感賞し、聞き届けた証として家康の判形を渡して返した。(その判形は長実から木崎家へ賜い維新迄同家に伝わっていたと記録にあるが、同家は絶えたから茲に記載できない)
長実の注進が家康にとってよほど嬉しいことだったのか、長実の人徳によるものか、いずれにしても特別扱いである。伊東家の底力とは何なのか、囲炉裏端で考えてみるとよいだろう。