東京と大阪を結ぶ交通路は現在の日本の大動脈である。それは、東名・名神高速道路であり、国道1号線であり、東海道新幹線であり、東海道本線であり、遠い将来は中央リニア新幹線となるルートである。しかし、古代日本に東京はなかった。畿内と結ばれていたのは博多、大宰府であった。その道が古代山陽道である。
姫路市太市中に「邑智(おおち)駅家(うまや)跡」がある。駅家とは古代の宿場で、駅の字のとおり「馬」を備えていた。乗捨てのレンタカーのようなものか。この駅家は『播磨国風土記』に登場する。
邑智の駅家。土は中の下なり。品太(ほむだ)の天皇、巡り行でましし時、ここに到りて勅りたまひしく、「吾は狭き地とおもひしに、こは、すなはち大内なるかも」と。かれ、大内と号く。
応神天皇が「狭いと思っていたんだが、中はけっこう広いね」と言ったことが地名の起こりだ。山陽道では桜峠と槻坂峠に挟まれた場所なので、峠を抜けた旅人はそのように感じたのかもしれない。地元自治会による説明を読んでみよう。
古代10世紀に編纂された「延喜式」の巻二十八兵部省に記載されている駅家は播磨では9駅で、そのうち山陽道沿いの7駅の中の1つがこの邑智〈大市〉駅家であり、員数は20匹と定められている。
「日本後紀」大同元年五月の条に山陽道の駅家は「瓦葺粉壁」とある。当時地方にあっては寺院より他に瓦葺の建物はない時代に、駅家がこれをそなえていたことは、単に建築上から考えても駅家は地方文化の中心であった。この付近(向山古瓦出土地)には「馬屋田」の字名が今も残っている。
山陽道の駅家を瓦葺の白壁にして飾ったのは外国からの客人が利用するためだ。応神天皇が感嘆したこの広い地でひときわ立派な建物を中国、朝鮮の使節はどう眺めただろうか。高速道路で走り疲れた私たちがサービスエリアを見てホッとする気分と同じなのだろうか。
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