歴史用語は歴史認識を示すものとして重要だが、時代の変化や研究の深化によって歴史認識が変わると用語も変えられる。私は「渡来人」という用語が広まり始めた頃に、それを学校で教わった。それまでは「帰化人」と呼んでいたが、「帰化」という概念が朝鮮から日本にやってきた人々の姿を必ずしも正確に表してはいないので、単に“渡って来た人”となった。含意のある深い語句ではないが、実に分かりやすい。
姫路市勝原区丁(よろ)字家久田に瓢塚(ひさごづか)古墳がある。「前方後円墳」とは何かがよく分かる名墳である。
この古墳は墳丘全長104mと、この辺りでは規模が大きく、かつ最古式の古墳ということで、国指定史跡となっている。この地を早くから大きな勢力が開いていたのだろう。
時代は下って仏教の受容期になると、権力存在のメルクマールは古墳から寺院へと変化する。この地域は、その典型を見ることができる。
姫路市勝原区下太田字薬師田に「下太田廃寺阯」と刻まれた標柱があり、その背後に塔の礎石が並び中心に心礎が残っている。寺の創建は奈良時代前期だとも白鳳時代だとも言われている。
今でも周囲には水田が広がるとともに西に檀特山が構える美しい風景を楽しむことができる。この地の古墳や寺院の存在は、渡来人が関係しているのかもしれない。『播磨国風土記』揖保郡の条に次のような記述がある。
今、勝部(すぐりべ)と号くるゆゑは、小治田の河原の天皇の世、大倭の千代の勝部等を遣はして田を墾かしむ。やがてこの山の辺に居りき。かれ、勝部の岡と号く。
これが「勝原」の地名起源である。「下太田」はどうなのか。
大田といふゆゑは、昔、呉の勝(すぐり)、韓国より度り来て、始め、紀伊の国の名草の郡、大田の村に到り、その後、分かれ来て、摂津の国の三島の賀美の郡、大田の村に到りき。しれまた、揖保の郡の大田の村に遷り来たれり。これ、本の紀伊の国の大田をもちて名となせるなり。
ここでも「すぐり」が登場する。これは渡来系の氏族に与えられた姓である。渡来人は、この地方の先進性に大いに寄与したに違いない。当然、西からやって来たものと思うところだが、来歴を読むと紀伊、摂津、そして播磨と東から移住してきたことが分かる。肥沃な土地を自発的に求めたのか、大王から技術援助をせよとの命令があったのか、事情が知りたくなってくる。
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