大きな古墳には陪塚(陪冢)という小さな古墳が付属していることがある。首長と臣下のような関係だろうか。あるいは家族だろうか。死後も近くにいさせてあげたいというのは古今変わらぬ人の情である。
宇治市菟道に「宇治墓陪冢」がある。周囲は道路、鉄道、住宅で、塚はかろうじて残っているという雰囲気である。
前回、菟道稚郎子の陵墓について述べた時、この墓は古墳としての疑念があることについて紹介した。その陪塚についても同様である。『宇治市史5東部の生活と環境』はこう説明する。
小字丸山の宇治墓の東方には、その陪塚に治定されている小墳がある。第三巻三章四節に述べたようにその場所は、もと波戸浮舟社と称する小祠が存在したところである。小祠の周辺には、榎や椋などの樹木が繁茂し、浮舟の杜とも呼ばれていたという。
その名をみても、この小祠が羽(波)戸の地にあった三室津の、水上交通の守護神として祭祀されたものであろうことは容易に推察し得る。その後、水辺の地形も変り、三室津の機能も減退して、先項に述べたように羽戸の集落も廃絶し、いつの間にか宇治十帖の<浮舟>の古跡とされるようになってきたのである。
この浮舟の社は、寛保年間(一七四一~四四)に至って社殿が取払われて廃絶し、その跡に石を置いて印しとしていたという。明治になってそこが陪塚とされたため、<浮舟>の古跡が失われることになり、新たに三室戸寺に古跡地を設けて、「浮舟古跡」と刻んだ石碑が建立された。
つまり、この陪塚の地は、水上交通の神様が祀ってあった場所であり、『源氏物語』<浮舟>の古跡とみなされた場所であった。それがなぜ陪塚とされたのか。『日本後紀』巻二十四に次の記述(弘仁6年6月27日の条、講談社学術文庫版現代語訳)がある。
播磨守贈正四位下賀陽(かや)朝臣豊年(とよとし)が死去した。豊年は右京の人で、儒教の経典と史書に通じ、官吏登用試験で甲第を得た。操を立てて信義を守り、怖じ恐れるところがなく、知人以外は交際することを好まなかった。大納言石上(いそのかみ)朝臣宅嗣(やかつぐ)が敬意をもって対応し、芸亭院(うんていいん)に招き、豊年は数年間、広く多くの書物を読んだ。日本の貴紳らはみな釈道融・御船王も豊年に及ばないとした。友人小野永見(ながみ)を訪ねて筆をとり、公の字を書き、「蔑む目つきで大臣に対(むか)う」という詩を作った。身分の高い者を嫌ったのである。延暦年中に東宮学士となり、平城天皇が践祚すると従四位下に叙され、式部大輔に任じられた。藤原薬子による女謁(じょえつ)が深刻となり、立派な人物が排斥されても平素の思いのまま成り行きにまかせ、沈黙を守った。その後、平城天皇は病となり嵯峨天皇に譲位し、平城京への遷御(せんぎょ)があっても従わず、式部大輔の職を守り、のちに平城太上天皇が伊勢行幸を図り乱に及ぶと、みずからの意思で式部大輔の職を辞した。嵯峨天皇は豊年の広い才智を惜しんで播磨守に任じ、終身その任におくことにした。着任して三年目に病により職を離れ、宇治の別荘で病床に臥した。往時、仁徳天皇と宇治稚郎(うじわきいらつこ)が皇位を譲りあったことは『日本書紀』に明らかに記述されているが、宇治では故老がこの伝承を語っていた。豊年は病のうちにこの話を聞いて感動し、止むことがなかった。そして、右大臣藤原園人に依頼して仁徳天皇を慕い、死後の臣下となった。嵯峨天皇は豊年が死去すると、勅により仁徳天皇の近側に葬ることを許可した。正四位下を贈り、国華(こっか)として崇敬した。当時の人は「豊年は人徳にあまりがある一方で、官爵が不足していた」と語った。行年六十五。
ただ、豊年が慕ったのは「莵道稚郎子」の誤りであろう。原文の「昔仁徳天皇与宇治稚郎相譲之事、具著国典、故老亦語風俗、病裏聞之、追感不已、託右大臣、慕為地下之臣、卒日有勅、許葬陵下」という文脈からは、莵道稚郎子のほうが自然である。
この陪塚は莵道稚郎子を追慕する賀陽豊年をイメージして作られた新しい古跡であろう。それが史実とは異なっていたとしても、この地の歩みを語ってくれる貴重な史跡ともいえよう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。