歴史における象徴の問題を考えたい。何やら歴史哲学が論じられそうだが、私はその任に堪えられないので、自分の言葉で話そう。前記事の平等院鳳凰堂が当時の浄土信仰を象徴するように、歴史的事象を理解してもらうには、視覚化するなり平易な文句に置き換えるなりすることは欠かせない。
宇治市宇治に「喜撰橋」がある。宇治なら宇治橋でしょ。いやその通りだ。だが、山の碧に朱が映えて美しいものの、歴史の浅いこの橋をあえて採り上げるのは、そのネーミングに注目したからだ。
この橋に「喜撰」と付けたのは、百人一首の喜撰法師が宇治ゆかりの歌人だからだろう。
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
矢崎藍『みもこがれつつ‐物語百人一首‐』では次のように解釈されている。
私の庵は都の東南のこの山にあり、私はこうして住んでおりますよ。山の名が宇治だもので、世の人びとは、世が憂くて捨てた“世を憂ぢ山だ”なんぞと、言っているようですな。
ファッファッファッと歯のぬけた口からもれる笑い声がきこえてきそう。
この不思議な爺さんは、あの紀貫之の理解も越えていたようだ。『古今和歌集』仮名序で次のように記している。(訳文も含め引用元は矢崎同書)
宇治山の僧きせんは、ことばかすかにしてはじめをはり、たしかならず。いはば秋の月をみるに、あかつきの雲にあへるがごとし。
言葉には微妙な美しさがあるが、始めと終わりがはっきりしない。つまり何が言いたいのか定かでない。こうこうと照る秋の月を見ようとしたらもう、暁の雲が浮かんでいるようなものだ。
わけわからんと言わんばかりの歌評だが、それこそ喜撰爺さんの思うツボなのかもしれない。確かなことは喜撰が宇治に住んだことだ。
それにしても、この日は暑かった。抹茶ソフトの抹茶がけにも惹かれたが、氷の暖簾に誘われて「とどう庵」に入って宇治ミルクで涼をとった。茶だんご付きで、ああ宇治に来たのだと旅情に浸っていた時、お茶といえば宇治、宇治といえば喜撰法師とつながってきた。
もうお気付きだろう。あの黒船来航でおなじみの狂歌だ。2010年7月6日の神奈川新聞の記事を読んでみよう。
教科書から消えた風刺狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰」、黒船来航直後のものと裏付ける書簡発見
ペリー艦隊の黒船が横須賀・浦賀沖に来航した嘉永6(1853)年6月当時の江戸幕府の混乱ぶりを風刺した狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」が、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡がこのほど、東京都内で見つかった。この狂歌は関連史料が明治時代までしか、さかのぼれなかったことから「明治人の作ではないか」との説が10年ほど前から出され、最近ではほとんどの教科書から消えていた。発見者は、新史料によって旧来の説が正しかったことが裏付けられたとしている。
発見したのは元専修大講師で横須賀開国史研究会特別研究員の斎藤純さん(62)。同研究会が編集し、横須賀市が発行する研究誌「開国史研究第10号」で経緯を報告している。
それによると、書簡は1853年6月30日付で日本橋の書店主山城屋佐兵衛が常陸土浦(茨城県)の国学者色川三中(みなか)にあてたもの。異国船(黒船)の件で江戸が騒がしい状況を知らせ、追伸の形で「太平之ねむけをさます上喜撰(蒸気船と添え書き) たった四はいて夜(よ)るもねられす」などの狂歌が記されていた。
斎藤さんは茨城県の豪農大久保真菅が収集したペリー艦隊来航記録を調べていた際、大久保の師である色川の黒船来航記録に関心を寄せた。今年2月初め、静嘉堂文庫(東京都世田谷区)が所蔵する色川の旧蔵書の中に、色川本人が山城屋の書簡を張り付けて保存していた「色川三中来翰(らいかん)集」があるのを見つけた。
通常引用される狂歌と比べ、「泰平」が「太平」に、「ねむり」が「ねむけ」となっているが、斎藤さんは「表記上の違いで、『ねむり』は書き写す過程で変わった可能性がある。基本的な意味は変わらない」と解説。「黒船来航当時の衝撃度がよく分かる狂歌で、ぜひ教科書でも復活してほしい」と話している。研究誌は800円。横須賀市役所や各行政センターなどで購入できる。
ほう、そうだったのか。教科書から消えかかっていたとは。それにしても、この歌はよくできている。ペリーの艦隊が4隻できたこと、それによって鎖国が終わりに導かれたこと、つまり結果的に近代へと移行していったこと、さらには、ペリーの黒船が蒸気船だったことまで端的に表現している。ここでは4隻のうちサスケハナ号とミシシッピ号のみが蒸気船だったとか細かいことはどうでもよい。時代の様相を見事にイメージ化している。
この歌が紹介される時必ず、上喜撰とは高級なお茶のこと、と補足説明される。そんな銘柄のお茶もあるのかくらいの思いだったが、「宇治」がすべてをつないでくれた。喜撰法師もまさかのペリー提督に結び付けられ、ファッファッファッなのかもしれない。
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