先日の田村正和のTVドラマ「忠臣蔵‐その男、大石内蔵助」にしろ、今公開中の映画「最後の忠臣蔵」にしろ、ここのところ忠臣蔵が気になる。長期間にわたる出来事であっても、メディアが取り上げる時期には季節性があるようだ。夏は太平洋戦争、冬は忠臣蔵のように。
笠間市笠間に「大石邸跡」がある。隣に笠間日動美術館があり歴史と芸術との両方に浸れる。新緑の時季で何もかもが美しく見えた。
大石内蔵助と茨城県笠間市。忠臣蔵の史跡としては聞いたことがないような…。それもそのはず、この屋敷に住んでいたのは大石内蔵助良雄(よしたか)ではなく、曽祖父の良勝(よしかつ)や祖父で養父の良欽(よしたか)である。大石家がここ笠間に暮らしていたのは、主家の浅野氏が笠間藩主を務めていたことによる。大石家の家譜を大石神社社務所『実証義士銘々伝』に語ってもらおう。
大石家の先祖は、遠く鎮守府将軍藤原秀郷から出て、代々近江国栗太郡大石庄を受け継ぎ居住したので大石氏を称え、近江の守護佐佐木氏に属し、下司職をしていたが、応仁の大乱によって、一家悉く戦没、世嗣も絶えてしまった。
この名族の、絶滅を惜しんだ結果、秀郷の後裔で、下野国の小山氏から久朝を迎えて、大石家を再興した。そのあと四代目の金右衛門良久は、足利将軍義昭を助けたため、織田信長に滅され、大石家は、再び絶えかけたが、その後、仲家・新家・南家の三家に分れた。
新家の久右衛門良信は、摂政関白豊臣秀次に仕えた。その次子が良雄の曽祖父、内蔵助良勝であり、三男が大石瀬左衛門信清の祖父、八郎兵衛信云である。
良勝は、初め石清水八幡宮の宮本坊に預けられたが、僧になるのを嫌って、十四才のとき、宮本坊から脱走し、武士になろうと江戸へ出た。その後、十八才の時、常陸国笠間の城主浅野采女正長重に仕え、のち大坂冬の陣・夏の陣と両度の陣に出征、そのときの武勲によって、次第に重く用いられ、遂には家老に昇進、知行千五百石を賜わり、長重の子の内匠頭長直の代まで仕えた。
良勝の嫡子が、二代目の内蔵助良欽であり、次子が頼母助良重である。共に浅野家の家老職として仕えた。この良欽のとき、浅野家は笠間から赤穂へ転封になったので、良欽らも主君長直に従って赤穂へ移り、内匠頭長直、采女正長友、内匠頭長矩の三代に仕えた。
良欽の嫡子、権内良昭は、備前国池田藩の家老池田玄蕃由成の女、クマを迎え、その間にできた嫡男が、三代目内蔵助を嗣いだ良雄である。
良雄は万治二年、赤穂で生れたが、十五才のとき父の良昭が、家督を相続しない部屋住のまま早死をしてしまった。そこで、孫の良雄が、一旦、祖父良欽の養嗣子となった。四年後の延宝五年、養父良欽が死んだので、家督を嗣ぎ、内蔵助を襲名、このときから、良雄(よしお)を祖父と同じくヨシタカと呼ぶようにした。
浅野氏が笠間藩主を務めたのは元和8年(1622)から正保2年(1645)。内蔵助良雄が生まれた万治2年は1659年。浅野氏とともに大石家が笠間を去って57年後に討入りが起きているのだから、笠間と忠臣蔵とはほぼ無関係である。浅野氏の転封後も代々の笠間藩主はこの地を家老屋敷として与えたというから、名称は必ずしも「大石邸跡」でなくともよい。それでも「大石邸跡」と今に伝えられてきたのは、ひとえに大石内蔵助人気によるものだろう。近くの佐白山麓公園には内蔵助の像まであるのだから。
ただ、命に代えても主君の無念を晴らしたいとの浪士の思いは、浅野氏が笠間時代も含めて培ってきた信頼関係から生まれたものであろう。人間関係の希薄な現代から見れば、個人だけでなく代が替わっても家と家との関係が続くのは驚くべきことに思える。
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