宇喜多直家は、城下町・岡山を開府したことから岡山での評価は悪くないのだが、全国的には手段を選ばぬ策謀家のイメージが強い。実際にそうした事例が目立つのだから仕方がない。今回も直家にとって不利な史跡の紹介である。
岡山県和気郡和気町岩戸に「浦上与次郎之墓」がある。舗装された道から少し山道を登ると、小さいながら石垣を作って祀られた与次郎の墓がある。織田信長から播磨・備前・美作の支配を認められた父・浦上宗景の居城、天神山城は向かい側の大きな山だ。
浦上宗景には獅子身中の虫がいた。家臣の宇喜多直家である。君臣の争いに巻き込まれた与次郎こそ悲劇である。地元の方が発行した『浦上宗景と天神山城』から関係部分を抜粋しよう。
宇喜多直家の下克上による天神山落城は、先ず直家が伊部鯛山城を攻撃し宗景と争い一時不和となったが、戦国武将の常套策としての政略結婚による勢力拡大は、宗景の嫡男与次郎を直家の娘婿とし、不和であった関係を修復しているものゝ、直家の本心はどこまでも打倒宗景である。別に敵対する様子もないようであったが今やガラリと態度を変え一路下克上の実行にはいった。直家は娘婿の与次郎を岡山城に招き毒酒を飲ませた。それと気づいた与次郎は急ぎ父のもとに帰ったが、発病し天正五年五月六日死去している。
29歳であった。まさか義父に毒酒を飲ませられるとは思うまい。戦国の世とはいえ気の毒な限りである。墓が地元の方によって大切に扱われていることが、与次郎へのせめてもの供養である。
お気付きのことと思うが、『浦上宗景と天神山城』の筆者は宇喜多直家を快く思ってはいない。直家の最期を次のように紹介している。
直家も、下克上の見本のように肉親を殺し、主人を殺し朋友を殺して、出世の為には全くその手段を選ばなかった悪辣な業の報の如く、体中より膿血の出る業病で、天正九年五十三才で死去した。
今日の人が惹かれるのは武将の強さでなく人柄に対してだ。せめて敵に塩を送るくらいの器の大きさが直家に…、いや、人の性格は変わらない。
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