宿場町だったことは今や貴重な観光資源である。当時を思わせる町並み、さらには本陣の建物でも現存していれば、かなりの‘売り’だ。中仙道の妻籠宿、会津西街道の大内宿などが観光地としてよく知られている。
倉敷市真備町川辺に「川辺脇本陣跡」がある。本陣の石井氏邸宅、脇本陣の高草家邸宅の現存する山陽道矢掛宿の東隣である。
本陣は難波氏、脇本陣は日枝氏が務めていた。本陣の建物は明治26年の高梁川大洪水で流失、二階建の脇本陣は後々まで残っていたようだ。
何年か前にライブドアとフジテレビとの間にニッポン放送株取得をめぐってトラブルが生じた時、ライブドアの堀江社長とともにテレビ画面で見かけたのがフジテレビの日枝会長である。この日枝氏が脇本陣の日枝氏ということだ。
川辺本陣跡は脇本陣の斜め向かいにあるが、同様の石碑が建っているのみである。川辺まちづくり推進協議会の説明板は語る。
参勤交代の諸大名の川辺本陣の宿泊率は矢掛本陣とほぼ同じ40%強で、2カ月に1回の割合であったが、高梁川に橋はなく、舟や徒による渡しのため、氾濫があるとしばしば逗留を余儀なくされたことから、川辺宿に賑わいは矢掛宿を凌いでいたのではないだろうか。
賑わっていたという川辺宿に珍客がお泊りになった。象である。『真備町史』から引用しよう。
享保十四年(一七二九)川辺に象来る。
四月十二日、日本に初めて象が来た。江戸まで行くので各地方の町史にもこれを取り上げている。
途中川辺に一泊。現在と違って全部歩かせて連れて行く。川辺には泊まるので、岡田の殿様や令息内記様や源福寺に来られて藪の中から御覧なされた。
(四月十二日象川辺泊りニ付 殿様、内記様
源福寺江被為入 藪の中より御覧被遊候)
今ではそうと聞かなければ分からないほどの普通の街路となった山陽道の川辺宿。矢掛宿を凌ぐという、川止めになった時の賑わいとはどのようなものだったのか。できるならば、珍客・象を子連れでこっそり見た殿様の感想を聞いてみたいものだ。
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