今年もNHK大河ドラマが好評のうちに始まっている。書店には関連書籍が並んでいる。本を手にして史跡巡りをするのも楽しそうだ。お江は波瀾万丈の人生を歩んだだけにゆかりの史跡が多い。
備前市吉永町和意谷に「左近衛権少将源朝臣室家藤原氏之墓」と刻まれた池田勝子の墓がある。
池田勝子といえば現代風な印象があるので、勝姫と呼ぶほうがイメージ通りだろう。姫の夫は池田光政。徳川光圀、保科正之と並んで三名君として知られる好学大名である。江戸時代の学問といえば儒教であり、この墓も儒式となっている。もちろん夫婦の墓は並んでおり、向かって左隣に光政の墓があるが本日は省略する。
大名の奥方が歴史の舞台に登場するのは稀だが、勝姫は夫のため、いや岡山藩のために重要な役割を果した。市川俊介『岡山城物語』下(岡山リビング新聞社)を読んでみよう。
岡山藩始まって以来の大災害が起きたときである。承応2~3年(1652~54)に備前大洪水となり旭川が氾濫し、城下町はもちろん領内は泥海と化した。そのうえ、お決まりの飢饉が襲い、藩主光政はその復旧と救済に全力を傾注したにもかかわらず、藩財政だけはどうすることもできない最悪の状態になっていた。
藩は幕府への借財を申し込んだが聞いてもらえず、金策は尽きて途方に暮れ、遂に奥方から千姫(天樹院)にお願いしてみてはということになった。天樹院は実弟の将軍家光に事情を話し、家光は天樹院に都合した。
「承応4年2月朔日、一金四万両 天樹院様より御借用」(「土倉家文書」)と記されている。この天樹院からの借金で、岡山藩最大の危機は逃れることができたのである。勝子、千姫の女性コンビが岡山を救ったわけである。
勝姫があの有名な千姫にお願いすると4万両のお金が都合してもらえた。血は水よりも濃いとはこのことだ。そう勝姫は千姫の一人娘である。そして千姫の実母がお江である。先日のドラマの中で無邪気にはしゃいでいたお江。もちろん自分の娘と孫娘が岡山の人々から感謝されるとは知る由もないことだ。
堀様
ご覧くださりありがとうございます。
池田光政公の妻、勝姫の系図は特別史跡旧閑谷学校(しずたにがっこう)のサイト内「江と閑谷学校」http://shizutani.jp/shiseki/info/index.cgi?c=zoom&pk=28
がよろしいかと思います。
ちなみに勝姫の墓碑銘に「藤原氏」とあるのは、実家の本多氏の本姓が藤原氏であることによります。
投稿情報: 玉山 | 2011/10/16 21:38
池田光政公時代前後の左近衛権少将源朝臣室家藤原氏の系図が有れば連絡下さる様お願い致します。
投稿情報: 堀 淳一 | 2011/10/16 14:23