「偕楽園公園は世界第2位の広さです。」
手元にある2004年の第108回水戸の梅まつりのパンフレットの表紙には、このように誇らしげに書いてある。第1位はニューヨークのセントラルパークだそうだ。実にスケールが大きい。
水戸市常磐町一丁目の偕楽園に「偕楽園記の碑」がある。水戸第9代藩主徳川斉昭(烈公)は天保13年(1842)に偕楽園を開いた。驚いたことにこの石碑は偕楽園の着工前の天保10年(1839)にはすでに完成していた。
碑文はどのような内容なのだろうか。安見隆雄『水戸斉昭の「偕楽園記」碑文』(水戸史学会、錦正社)に掲載されている読み下し文の一部を抜粋しよう。このような本が発行されることが、この碑文に深い内容があり鑑賞する価値があることを示している。
是(ここ)に於て梅樹数千株を芸(う)ゑ、以て魁春(かいしゅん)の地を表す。又二亭を作り、好文と曰ひ、一遊と曰ふ。啻(ただ)に以て他日茇憩(ばっけい)の所に供するのみに非ず。蓋(けだ)し亦国中の人をして優游存養(ゆうゆうそんよう)する所あらしめんと欲するなり。国中の人、苟(いやし)くも吾が心を体し、夙夜(しゅくや)懈(おこた)らず、既に能くその徳を修め、また能くその業を勤め、時に余暇あるや、乃ち親戚相携へ、朋友相伴ひ、悠然として二亭の間に逍遙し、或(あるい)は詩歌を倡酬(しょうしゅう)し、或は管弦を弄憮(ろうぶ)し、或は紙を展べて揮毫し、或は石に坐して茶を点じ、或は瓢樽(ひょうそん)を花前に傾け、或は竹竿(ちくかん)を湖上に投じ、唯(ただ)意の適する所に従ひ、而して弛張(しちょう)乃ち其の宜しきを得ん。是れ余が衆と楽(たのしみ)を同じくするの意なり。因(より)て之に命じて偕楽園と曰ふ。
碑は縦2.51m、横2.43mで、烈公自撰自書の613文字の漢文が篆書で刻まれ、それを梅樹の図柄が囲んでいる。上の写真ではさっぱり伝わらないが、拓本では芸術性の高さがよく分かる。
碑の近くに好文亭がある。戦災後の再建である。碑文中にある一遊亭は早くに廃されたらしい。好文亭は有料だがその他の入園は無料として、烈公の意を今も受け継いでいる。
偕楽園記からは烈公の徳治主義がよく感じられる。徳川斉昭といえば井伊直弼と対立して幕政を混乱させたイメージがあったが考えを改めねばならない。君主とは烈公のことであった。この公園の広さは都市公園としては世界第2位を謳っているが、精神性の高さにおいてはそれ以上の価値を有している。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。