誰が呼んだのか明暦の大火(振袖火事、1657年)、ローマ大火(64年〉、ロンドン大火(1666年)を世界三大大火という。振袖火事は死者10万余人ともいわれる史上類を見ない大火であり、出火要因として若死にした娘の振袖の因縁が怪談のように語り伝えられてきた。確かに世界レベルであるが、史上は江戸三大火事(他に目黒行人坂の火事、牛町火事)として有名である。
三鷹市下連雀四丁目に「八幡大神社(はちまんだいじんじゃ)」がある。下連雀の氏神様である。
この神社と振袖火事が関係しているという。まずは八幡大神社社務所・北多摩神道青年会作成の説明板(昭和61年7月吉日設置)を読んでみよう。
この神社は八幡大神社といい、今から三百二十年程前、後西天皇明暦年間、徳川四代将軍家綱の頃、俗に「振り袖火事」と云い伝えられている神田連雀町の罹災者松井治兵衛外二十四人衆等が幕府奨励の新田開発農民となって移住して来たのが三鷹下連雀の起りである。
このあたり一帯は徳川御三家の御鷹場があったことから「三鷹」と呼ばれ、又「下連雀」と云う字名は「神田連雀町」から由来している。
寛文四年、連雀村の名主松井治兵衛は村役の年寄、組頭等と共に「氏神社、八幡大神社」の御鎮齋を幕府に請願したところ、時の松平伊豆守は代官野村彦太夫に検地を命じ、当所南北に社地約壱万坪を除地として定め、創建の運びとなったのである。
では神田連雀町に行ってみよう。千代田区神田淡路町2-8に町名由来板「連雀町・佐柄木町」が千代田区によって設置(平成16年11月27日)されている。連雀町の由来を読んでみよう。
神田川に架かる筋違橋(すじかいばし)は、中山道(なかせんどう)に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代のはじめごろより筋違御門(すじかいごもん)が設けられていました。門の内側、のちに八ツ小路(やつこうじ)と呼ばれた地に、連尺(れんじゃく)(物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負(しょ)い子(こ))をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町(れんじゃくちょう)」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
明暦(めいれき)三年(1657)の大火「振袖(ふりそで)火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地(ひよけち)として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。その際、連尺を商う二十五世帯は、遠く武蔵野(むさしの)に代地(だいち)を与えられ移住させられました。現在の三鷹(みたか)市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
このように二つの町のつながりを知ることができる。三鷹の八幡大神社を訪れたのは6月19日だった。この日は隣の禅林寺で桜桃忌が行われた日だ。私も参列し太宰治の墓の前で合掌した。すぐ近くに森鴎外の墓があることは分かったのだが、明暦大火慰霊塔や三鷹事件遭難者慰霊塔には気が付かなかった。
三鷹事件は戦後史に残る国鉄三大ミステリー事件の一つで、無人電車の暴走により6人の死者が出ている。森鴎外の墓はもと向島の弘福寺(津和野藩亀井家の菩提寺〉にあったが関東大震災で罹災し、同じ黄檗宗の三鷹の禅林寺に改葬された。太宰治は希望によって鴎外の近くに葬られた。明暦大火慰霊塔も含め様々なゆかりによって、下連雀の地に史跡が集まったようだ。
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