都会には歴史を感じる場所がないと感じていた。あったとしても~の跡という小さな石碑が周囲の喧騒に掻き消されるかのようにひっそりと立つのみだと思っていた。しかし、都会でも時々歴史が目の前に現れることがある。それもそのはず東京には400年以上の歴史が累積しているのである。
千代田区霞ヶ関三丁目の文部科学省構内に「江戸城外堀跡石垣」がある。私が訪れた平成16年6月13日は発掘調査の現場見学会であった。現在でも保存され見学できるらしいが、この日以来行ったことはない。
ここは江戸城の外堀の石垣で、内側には日向延岡藩内藤家上屋敷があった。現在は文部科学省の巨大な庁舎、桜田通りや外堀通りを行き交う車、地下鉄の虎ノ門駅と都市機能に満ちあふれた景観だが、この石垣は歴史の風景を頭の中で組み立てていく重要な手掛かりとなる。いつ誰が築いたのか、見学会で配布された資料を読んでみよう。
この石垣は、寛永13年(1636)に徳川幕府の命により、江戸城外堀構築の総仕上げとして築かれたもので、その一部が文部科学省の構内に残されています。
寛永13年の外堀構築は、100家を超える全国の大名を動員して行われました。石垣を担当した大名は、石高において優位の大名を組頭とする六つの組に分けられ、組ごとに工事を担当する区域が振り分けられました。遺跡の位置する虎の門~溜池間の石垣は、主に備前岡山藩池田家を頭とする組が担当しており、文部科学省構内の石垣は北側から摂津三田藩九鬼家、石道惣築(大名が全員で築いた部分)、備中庭瀬藩戸川家、豊後佐伯藩毛利家、備中松山藩池田家が築いたものです。
今回公開いたします部分の石垣は長さ25mほどで、北側が戸川家、南側が毛利家が担当した部分にあたります。毛利家側の石垣の表面には、毛利家を示す「矢羽根」の刻印が多数刻まれており、この刻印の分布から毛利家と戸川家の担当部分の境を確認することができました。
写真を拡大すると中央部に矢羽根の刻印を見ることができ、その右に刻印のない石垣がある。これが毛利家と戸川家の境である。佐伯藩は2万石、庭瀬藩も2万と少しの石高だ。財政的にはきつかっただろう。自分の城くらい自分で築けよと愚痴が聞こえてきそうだ。この石垣は諸国の大名を動員した天下普請であることがよく分かる貴重な史跡である。
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