「汽笛一声新橋を」と口ずさんで、そこで止まってしまった。この有名な歌い出しから新橋が鉄道の起点だったと知ってはいたが、歌詞の続きが分からない。調べてみると「はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」というそうだ。
港区東新橋一丁目に国指定の史跡「旧新橋停車場跡」があり「プラットホーム遺構」が見学できる。石材は凝灰岩の伊豆斑石(まだらいし)だそうだ。
現在、駅舎の外観とプラットホームの一部が復元されている。中には鉄道歴史展示室があり、出土品などが展示されている。展示室でもらったパンフレットを読んでみよう。
新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・ブリジェンスの設計による木骨石張りの構造で、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。
(中略)
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。
その旧駅舎を再び見ることができる。私は初めて東京駅に降り立った時に、ついに来た!と一人で感慨にふけったものだが、昔の人も新橋のプラットホームで同じような思いを抱いたのだろうか。旅の始まりとも終わりともなった旧新橋停車場。JR新橋駅とは異なる時間が流れているようだ。
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