関東の雄、北条氏が世渡り上手で秀吉に頭を下げていれば、その後の家康の江戸入封もなかったかもしれない。すると日本の首都も果して今の姿であったかどうか。想像するのは楽しいが、主家を失った家臣はそれぞれに生きる道を探さねばならなかった。
板橋区赤塚五丁目の東京大仏の赤塚山慶学院乗蓮寺に「板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)」がある。
板橋の板橋氏だから土豪だとは分かるのだが寡聞にして存じ上げない。そこで板橋区教育委員会の説明板(平成20年3月)に教えてもらおう。
板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、「寛永諸家系図伝」によると、天正年間(一六世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。
忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代の旗本板橋氏は浄土寺を菩提寺としています。
その中で、文禄二年(一五九三)十一月二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋宿にあった乗蓮寺を菩提寺としています。
寛政四年(一七九二)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。
なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(一八六〇)に十三代の板橋政道が奉納したものです。
平成十年度に区登録有形文化財となりました。
なるほど、こうして板橋氏の事績を知ることができるのも良い子孫あってこそだ。忠康の子孫には旗本以外に板橋宿上宿の名主を務めるものがいた。主家の北条氏は家を傾けてしまったが、家臣の板橋氏はその後も地元で活躍した。生きる力とはこういうことであったか。
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