第何代と連綿と続いてきたものに興味が湧く。どうも代々の名前と期間が気になってしかたがない。誰が何という地位にいつ就いていたか、それを記録するのが、歴史叙述の基本だからだ。
品川区上大崎一丁目の宝運山摂現院光取寺(浄土宗)に「横綱力士陣幕久五郎土師通高墓」と刻まれた墓がある。第12代にして江戸時代最後の横綱である。
「陣幕」といえば年寄名跡の一つで千代の富士と北の富士の元横綱が名乗ったことでも有名だ。陣幕久五郎の出身地、島根県八束郡東出雲町では平成3年10月に横綱陣幕久五郎顕彰事業を開催し、陣幕親方(千代の富士)と師匠の九重親方(北の富士)を招聘したそうだ。その後、両親方は名跡を交換し、元横綱の陣幕親方が二代続くこととなった。
しかし正確に記せば、「陣幕」の名跡は陣幕久五郎自身よりも歴史が古く直接のつながりはない。陣幕久五郎を初代とするのは「北陣」である。このような違いは小さなことだ。横綱の陣幕を顕彰するのはやはり元横綱の陣幕親方がふさわしい。
陣幕はどのような力士だったのか。『世界人物逸話大事典』(角川書店)で調べてみよう。
陣幕は五尺七寸五分、三十七貫という固太りのアンコ型で、取り口は左をのぞかせるか、弭(はず)にかかって右からおさえ、じっくりかまえる、という守勢一方、堅実一点ばりの相撲で、一度土俵ぎわに踏んばれば、絶対に攻略不能といわれた。したがって怪我負けはほとんどなく、陣幕の相撲は勝つのではなく負けないのだ、というところから、世人は彼を、「負けずや」「負けずの陣幕」とよんだ。陣幕の幕内本場所での成績は、場所数一九、総取組数一一二、八七勝五敗、引分け・預り二〇。この間、優勝五回、うち全勝場所二回。その勝率九割四分六厘は、雷電、初代梅ヶ谷、谷風につぐ史上四番目の高率。(彦山光三『横綱伝』ほか)
これはすごい。強豪力士だから「横綱力士碑」の側に姿絵が刻まれている。向かって右が第12代横綱の陣幕久五郎(出雲)、左は第11代横綱の不知火光右衛門(肥後)である。
石碑には次のように刻まれている。
安政四年正月
両国回向院ニ於テ大角力
興行二日目ノ取組ナリ
これが横綱同士の歴史的名勝負かと思ったらそうではない。当時、陣幕は幕下11枚目、不知火は前頭6枚目で初対戦だった。ではなぜ記念碑になったのか。それは、碑を建てたのが陣幕久五郎その人だからだ。番付では格下だった陣幕が不知火を見事に破った。陣幕はその喜びが忘れられなかったのだろう。
「横綱力士碑」は江東区富岡一丁目にある。明治33年の建立で裏面に歴代横綱の名を刻んでいる。
現在最強の白鵬は第69代横綱である。この代数は陣幕の建立した横綱力士碑に基づいている。国技の歴史と石碑にその名を刻んだ大横綱・陣幕は明治36年に亡くなった。先人の労苦に応えるためにも、大相撲の健全な発展を願うばかりである。
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