あの長嶋茂雄もデビュー戦は三振を重ねたのだ。上手くできないからと言って諦めるのは早い。古くは源頼朝でさえ二回戦敗退である。石橋山の戦いで敗れた頼朝は海を渡って逃げたのだ。たどり着いたのがこの場所だ。
館山市洲崎に「矢尻の井戸」と「源頼朝公上陸地」の石碑がある。
大河ドラマで「義経」が放映されたのが2005年。これに合わせて発行された分冊百科に『週刊義経伝説紀行』がある。その第10号は千葉・洲崎の特集であった。一部を読んでみよう。
気持ちよい潮風を受けながらバスに揺られることおよそ30分、「矢尻の井戸前」で下車する。バス停のまわりは草原になっていて、小さな石碑が立っている。そしてそこには、「治承4(1180)年8月28日 源頼朝公上陸地」と彫られている。
平氏打倒の旗揚げとなる山木判官平兼隆討ちこそ、三嶋大社の祭礼の夜を利用した奇襲によって勝利をおさめた頼朝だが、それにつづく石橋山の合戦では、数において圧倒的優位を誇る平氏軍の前にさんざんな敗北を味わうことになる。
その結果、頼朝は海路を逃れて、安房(千葉県南部)のこの地に上陸したといわれている。
また、石碑の少し先には、四阿(あずまや)風の建物の下に古い井戸がある。これが頼朝ゆかりの「矢尻の井戸」とよばれるものである。なんでも、上陸した一行が飲み水に困ったので頼朝が鏃を地面に刺したところ、滾々(こんこん)と泉が湧き出たという伝説が残されていて、それがこの井戸なのだという。
私がこのような紀行文を書いたらよいのだが、あいにく文才が足りない。しかも自転車で通りかかりに出会った史跡だ。頼朝は鎌倉に行かないと会えないものと思っていた。歴史上の人物は土地の人に愛されてこそ輝く。洲崎の頼朝について、現地の石碑に語ってもらおう。
源は同じ流れぞ岩清水 せき上げてたべ雲の上まで この地にて 賴朝詠
源賴朝がこの地、洲﨑に上陸したのは一一八〇年(治承四年)八月二十八日のことだったときに三十四才、主從僅かに数人だった。
第五十六代清和天皇を祖とする清和源氏の嫡流である父義朝は、一一五九年(平治元年)の平治の乱に敗れ、賴朝は捉われの身となった。十三才の若武者の姿に涙した平清盛の継母池禅尼命乞いによって、伊豆の蛭ケ小島に遠流され、読書と写経三昧の日を送った。
武門の道を去った賴朝も遂に挙兵、石橋山の合戦に大庭景親の軍勢三千騎と戦って敗れこの地に海路逃れ来た。上陸地については吾妻鏡が鋸南町竜島、源平成衰記と義経記が洲崎説をとっているが、私は洲崎上陸を信ずる。賴朝主從は上陸したものの飲水がなく、持っていた賴朝の矢尻で自らこの地を一突きするや滾々と湧き出たのがこの矢尻の井戸であると里人は伝える。そしてこの先き洲崎明神に、目的達成の暁は江戸の神田を寄進するとの願文を奉った。神田明神の発祥である。土地の豪族安西三郎景益これを迎え、直ちに北上し四十余日後の十月六日には二万七千騎をもって鎌倉入りを果たした。宇治川の先陣争いの梶原景時の乗馬「磨墨」 一の谷の鵯越で源義経が乗った「太夫黒」は何れもこの地の産であった。思えば源家再興の原動力はこの地、安房の健兒と安房の駿馬であったといっても過言ではなかろう。敢えて私有地を解放し、由緒ある史蹟を供覧していただきたい所以を誌し、観光の一助とする。
昭和五十三年五月吉日 石井博
この文中にあるように、鋸南町竜島にも「源頼朝上陸地」があり、こちらは県指定史跡となんている。つまり公式には竜島が上陸地である。しかし、海流を勘案すると洲崎説が有力だそうだ。
安房への渡海は源頼朝にとって敗走であったが、千葉介常胤の合力を得て鎌倉入りし、東国政権を樹立していく。そういう意味では旧日本軍の言う「転進」であった。
しかし、この時点では一寸先は闇、千葉介常胤の動向次第では別の歴史が展開したかもしれない。さすがの頼朝も命からがらだった…いや、頼朝のことだ。したたかな計算に基づく行動だったのかもしれない。