二十年ほど前、初めてスキーに行ったのが妙高高原(新潟県)で、その時泊まったのが赤倉温泉の「岡倉」という民宿だった。宿のパンフレットには「岡倉天心ゆかりの宿」というキャッチコピーがあったが、どのようなゆかりなのか分からなかった。そして、岡倉天心の難しそうなモノクロの表情とスキー客のカラフルな姿が、どうしても重ならなかった。赤倉が天心終焉の地であることを知ったのは最近である。
豊島区駒込の染井墓地に「釈天心」と刻まれた岡倉天心の墓がある。珍しい形の墓だ。
赤倉で亡くなった天心の遺骸は棺に納められ列車で東京へと向った。柩は上野駅で降ろされ、本郷の橋本家(雅邦はすでに死去)での通夜ののち、谷中の斎場で葬儀が営まれた。天心の長男である岡倉一雄『父岡倉天心』(中央公論社)を読んでみよう。
在京の美術界関係の人びと、故人の知己をあわせて葬儀に会する者無慮数百人、盛儀をきわめたものであった。告別式が終ってから、遺骸は火葬に付され、染井の塋域に納められたが、墳墓は、早崎稉吉の考案で、方形の石の表面に釈天心と刻み、その上に芝を植え、土饅頭を築いた支那風の形式を採っている。ちなみに、天心の死が上聞に達すると、位一級をすすめられ、従四位に叙し、勲五等双光旭日章を授けられ、祭祀料金一封を賜わった。
赤倉の地には横山大観らの弟子による「天心岡倉先生終焉之地」という碑があり、今も命日の9月2日(大正2年没)には「天心忌」が行われている。岡倉家はもと福井藩士であったから、福井市内の岡倉家菩提寺、西超勝寺でも「天心忌」が営まれている。
北茨城市大津町五浦に「岡倉天心の墓地」がある。
この墓について『父岡倉天心』に先の引用部分の続きが次のように記されている。
かくて、染井塋域の納骨は終わったが、遺族のわれわれは、故人が生前、かりそめのすさびに残した―
我死なば花な手向けそ浜千鳥、
呼びかふ声をかたみにて、
落葉の下に埋てよ。
十二万年名月の夜、
訪ひ来ん人を松の蔭。
この辞世にもあらぬ辞世の歌を思いうかべて、松籟の音と、礁に激する波濤の響きが不断の楽を奏でている旧居五浦の一角に、地を相して土饅頭を築き、土坡をめぐらして一つの塋域を建てた。それで、東京の埋葬がつつがなく終了した九月の末、ここに分骨を行うこととなった。今はもう未亡人となっていた元子と私とがただ二人だけ、そのことに立ち会った。小さな骨壷を土饅頭に納め終ると、元子は懐ろから角ばった紙包みを取りだして、
「この人も不運な人でした。ここに葬ってあげることが、ほんとうに所をえたものでしょう。」
真面目な態度で、天心の枯骨とともに、それを土饅頭の下に埋めた。それは、ありし世の星崎はつ子の小照であった。
星崎はつ子とは、男爵九鬼隆一の妻で哲学者九鬼周造の母である。隆一との仲が疎遠になっていくとともに岡倉天心との愛を深めるが、やがて精神を病んで入院する。はつ子は実際には病院内で天心よりも長生きをしているのだが、天心の妻元子にしてみれば社会的には死んだも同然だったのだろう。おそらくは、はつ子が元気だった頃の写真を墓に一緒に埋めてあげたのだろう。それは、すべての愛憎を過去のものとする儀式だったのかもしれない。
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