宗教改革というのは何がしか原理主義的な色彩を帯びるものだ。コーランへ帰れ。聖書へ帰れ。法華経へ帰れ。そして、既存の宗教を擁護する権力と戦うことを辞さない。その姿勢は過激だと評されるだろう。しかし、その英雄的な行動が世の人々を惹きつけ歴史を創ってきたのだ。
大田区池上ニ丁目の大坊本行寺は「日蓮上人入滅の旧跡」である。 まずは説明板を読んでみよう。
東京都指定旧跡 日蓮上人入滅の旧跡
所在 大田区池上二丁目一〇番五号
指定 昭和十一年三月四日
日蓮(一二二二~一二八二)は鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖。安房国に生まれ、若くして天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修行し、仏法の真髄が「法華経」にあるとし、きびしく他宗を排撃したため、他宗・為政者から圧迫を受けた。
晩年は甲斐身延山に隠棲し弟子や信者の指導にあたっていたが、弘安五年(一二八二)九月八日病の悪化とともに身延山を出発、十八日に武蔵国千束郷池上右衛門太夫宗仲の邸(現・本行寺境内)に到着し、十月十三日の朝、この場所で入滅した。
病中の日蓮が身延山を立ってここに移ったのは、その昔、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮(東北方)にあたる工匠純陀の家で入滅した故事にならったものである。
昭和五十二年三月三十一日建設 東京都教育委員会
池上邸に到着した日蓮はまず、庇護者である波木井実長に礼状をしたためたという。
「御硯井戸」此の硯井戸は日蓮大上人が弘安五年九月十八日甲州身延山より此の地に御到着になり御使用になった霊水である。
「ご臨終の間」に「お寄り掛かりの柱」がある。病を押しての講義はここで行われたという。
歴史上、偉人と呼ばれる人はたくさんいるが、日蓮大聖人こそ不屈の人である。南無妙法蓮華経。ここで合掌して唱題すれば何か区切りが付いた気になる。偉人との距離が最も近くなる場所である。
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