大震災以来、天皇陛下におかれては被災地を相次ぎ訪問されている。ありがたいことだと思う。国民の精神的支柱だと改めて思う。茨城県のホームページの県政ホットニュース(公開日2011年4月26日)を引用しよう。
天皇皇后両陛下 北茨城市をご訪問
天皇皇后両陛下は4月22日、東日本大震災の被災者を見舞うため、北茨城市を訪問されました。
市役所において橋本知事や豊田市長から被災の概要説明を受けられた後、津波で大きな被害を受けた大津漁港を訪れ、鈴木大津漁業協同組合代表理事組合長から被害状況について説明を受けられました。
また、避難所となっている北茨城市民体育館では、避難されている方々、一人ひとりに励ましのお言葉をかけられました。
北茨城市大津町の大津漁港は幕末の混乱を予感させる「異国人上陸」の現場である。とても大きく美しい港だったことを覚えている。
鎖国とはいえ鉄のカーテンがあるわけではない。異国人は今の大津漁港の辺りに小船を泊め、やすやすと上陸して来た。異国人を留め置いた辺りに説明板が設置されているので読んでみよう。
異国人上陸
文政七年(一八二四年)三月二十八日 二そうの英国捕鯨船が、常陸大津浜沖に現れて碇泊、鉄砲を持った十一名の船員が二隻のボートに分乗して富岡海岸に上陸してきた。はじめて見る巨大な黒船と異人の姿に村人たちは驚きあわて、平和な浜は忽ち大騒ぎとなった。
急を聞いて駆けつけた領主中山氏の手勢によって船員は捕えられ浜辺の民家に監禁されたが、一部の船員が逃亡を企てたゝめ洞穴に押し込めた。沖合の本船は数十発の大筒空砲を轟かせ威嚇しながら船員の身柄引渡しを要求したが、拒否された為、上陸船員を残して退去、その後数日して、こんどは5そうの船団となって現れたが再び退去した。
水戸藩からも出陣の兵が送られ幕府代官の下向によって取調べが行なわれた。結果船内に病人が出て、野菜等の補給の為の上陸とわかり、六月十日薪、水、食糧など給与し、ボートにて退去させた。
この事件を知った水戸の藤田幽谷は一子東湖を大津浜に送り異人たちを斬るべく計ったが時すでに釈放のあとで果たせなかった。
「常陸なる大津の浜にイギリスの船を、つなぐと君はきかずや」の一首はそのときの歌である。
異人たちは二十日ほどの囚われの中で画をかき、相撲などとって里人と親しくなった。
洞穴のそばに梅の老木があった。
人呼んでイギリス梅という。昭和のはじめに枯死し、今は面影をとゞめていない。
これ以後も常磐沖には、外国船が出没し、沿岸各藩の海岸防備は厳重をきわめた。
嘉永六年ペリーの浦賀来航に先立つ約三十年前の事件であった。
北茨城市
茨城民族学会北茨城支部資料提供
最後の「茨城民族学会」は「茨城民俗学会」が正しいと思う。この説明文の最後、ペリー来航の約30年前の出来事だという指摘は重要だ。ペリー来航は決して青天の霹靂ではなかった。すでに外国船は近海まで来ていたのだし、しかも、この事件ではいとも簡単に侵入されているのである。藤田東湖が海防に力を注ぐこととなったのも無理はない。幕府は態度を硬化させ、翌年に異国船打払令を出す。
ただ、為政者と庶民の感覚は違う。相撲をとって仲良くなり、イギリス梅と呼んで、かつてを偲んできた。攘夷発祥の地は国際交流の場でもあった。
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