一揆の始まりは神社がふさわしい。神社は地域のシンボルであり、祭礼の折などに民衆のアイデンティティを確かめる場である。一揆の民衆が一味同心を誓う姿は絵になる。傍から眺めるから「絵になる」のであって、当事者の心情はロマンでは語れない。
秩父市下吉田に「椋神社」が鎮座する。
椋神社は式内社で、由緒書によると日本武尊が東征の折に猿田彦大神を祀ったことに始まるというから、ずいぶんと歴史がある。拝殿の木鼻はおそらく獏だろう。
獏の木鼻は珍しいわけではないが、下のように秩父事件のパンフレットに使用されるととても迫力がある。
これは合併前の吉田町教育委員会が作成したもので、事件の概要が地図とともに簡潔にまとめられており史跡探訪に至便だ。フィールドワークのための書籍はいくつか出ているが、井出孫六『秩父困民党紀行』(平凡社カラー新書)ほど味わい深いものはない。椋神社の場面を読んでみよう。
椋の宮の境内は、わたしのいだいていたあらかじめのイメージと、そうへだたりがないほどに暗くそして湿り気を含んでいた。阿熊川の流れでる谷合にのぞんだ懸崖に石段があって、登りつめたところに立つ鳥居の両側に配された神犬の気味悪さを、わたしはいつになっても好きになれない。そこに集るもの三千人と伝えられているが、三千の人間を収容するにはあまりに狭い境内と見える。いや、十七年十一月一日の夕刻、決起した農民はじっとそこにうずくまって、幹部のアジ演説に耳傾けているほど悠長な状況にあったと考える方がまちがっている。彼らには、やらなければならない仕事は山ほどあった。境内などにたむろしている閑があったら、逃げ腰で家にぐずぐずしている仲間を、尻を叩いて引っぱってこなければならない。げんに上日野沢村の小隊長となった村竹茂市は、前日まで峠から峠を走りまわっていた上に、あまりのまずしさに、真綿の戎衣(じゅうい)をととのえることができず、ついに定刻までに椋の宮にかけつけることができなかったと、取調べ官に語っているではないか。
困民軍役割表を発表する総理田代栄助の声は、低く重くしわがれていた、とわたしは想像する。なぜなら、九月から十月にかけての目くるめくほどの状況の進展のなかで、栄助の精力はあまりにも費消され、蜂起前夜、すでに持病の胸痛が彼の肉体を責めさいなんでいた。その上、その日の午後、血気にはやる甲大隊長新井周三郎の率いる一隊は、この椋の宮から見おろせるあたらし坂で警官隊と一戦を交じえ、味方の柏木太郎吉が落命するとともに、警官にも傷を負わせ、蹴散らした末に、捕虜一名に荒縄をうって引ったててくるというハプニングが、栄助に大きな衝撃を与えていたからでもあった。
沈うつな栄助のパスにひき比べて、軍律五ヶ条を読みあげる参謀長菊池貫平の声は、かん高く、金属的な響きをもって、椋の宮の木木にこだました、とわたしは勝手に想像する。理由がべつにあるわけではないが、その後の貫平の、あっけらかんと思われるはどに楽天的な行動性にてらして、軍律五ヶ条を読みあげる彼の声は、よくひぴくテノールでなければならないと思われるだけのことだ。
「そうでなくちゃいけねえ、からっと景気よくいこうぜ」
群衆のなかから、椋の宮の境内の湿り気を吹きとばそうとするそんなヤジが飛んだとしても不自然ではない。いや勝手な想像はつつしもう。日暮れてなお道は遠く、その日、わたしたちは、町の小林教育長におねがいして吉田町の民俗資料館を観る約束がまだのこっているのだ。
椋神社での決起集会の後、困民軍が向かったのは郡役所のある大宮郷だ。そこに革命本部を設置することとなる。秩父事件である。椋神社は事件を象徴する場所として教科書にも掲載された。
神社に参集した民衆の心情を代弁するかのような木鼻の獏だが、事件当時は無かったのではないか。というもの由緒書に「大正十年拝殿幣殿の改築竣工す」とあるからだ。かなわなかった民衆の夢は獏に食われたわけではない。自由民権運動の象徴として語り伝えられ、勇気を与え続けることだろう。
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