「秩父困民党」なら歴史で習ったとたんにおぼえた。事件の詳細は知らずとも字面だけで、困ったんだなあ、とよく伝わってくる。秩父は遠く、行く機会をつかめていなかったが、秩父事件の映画『草の乱』の公開(平成16年9月)に刺激を受け現地を訪れた。
秩父市吉田久長(当時は秩父郡吉田町久長)の龍勢会館の隣に「井上伝蔵邸」が復元され、秩父事件資料館となっている。映画で使われたオープンセットの一部も移築されている。
商号「丸井」のロゴマークのある井上伝蔵邸は映画の撮影に合わせて復元されたもので、本来はこの場所よりもっと西の方面にあった。丸井の主は代々「井上伝蔵」を名乗り、本日の主人公は6代目の伝蔵である。
濁りなき御代にはあれど今年より八年の後はいとど澄むべし
明治15年に井上伝蔵が詠んだ歌である。8年後の国会開設に期待する地元の名士であった。
井上伝蔵は自由党に入党し、左派の大物・大井憲太郎のもとを訪れる。だが、各地で発生した激化事件の影響で自由党は解党しようとしていた。秩父で農民の蜂起が準備されていることを伝える井上に対し、大井は時期尚早として思いとどまるよう説得する。西野辰吉『秩父困民党』(第10回毎日出版文化賞、講談社文庫)が描く両雄対話の場面である。
井上伝蔵はそれから二十分ほど話しこんで、大井憲太郎の家を出たが、わかれぎわに大井のいったことばが、つよい印象でこころにのこった。書斎を出るとき、大井はランプを手にさげて、「井上君」とかんじょうのこもった、しかしひくい声音でささやくように話しかけた。
「君は、日本がどうなるか、みたくないか。投獄されることはやむを得ない。それはわれわれの避けることのできない運命だ。しかし、死んではならんぞ。生きて黒い眼で、日本がどうなるか、しっかりみようじゃないか」
明治17年(1884)11月1日、秩父で武装蜂起。しかし憲兵隊の出動により、4日には困民軍の本陣が解体。捕らえられた幹部が多いが、困民軍会計長・井上伝蔵は潜伏、そして北海道へ逃亡、欠席裁判では死刑判決となっていた。
大正7年(1918)6月23日、北見市で伊藤房次郎が死去する。死期が近いことを悟った房次郎は家族を呼んで、自分が秩父事件の井上伝蔵であることを明かしたという。
大井憲太郎は秩父事件の翌年、大阪事件で投獄されるが大赦後は衆議院議員として活躍し、大正11年(1922)に死去する。井上伝蔵と大井憲太郎、彼らの眼に日本の近代はどのように映ったのだろう。
自由自治元年と号した秩父民衆の蹶起について、この酒の箱には次のように記されている。
秩父事件は高利貸、村・県・政府に対する要求を掲げ、政治の改革を求めた事件として、また自由民権期最大の武装蜂起として高く評価されている。
立ち上がった人々は1万人とも言われている。まさに草莽崛起(そうもうくっき)、草の乱であった。
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