勝頼自害してのち、武田の子孫は長く絶えにけり。天目山の戦いで戦国大名武田氏は滅亡する。ライバルであった上杉氏は近世大名として存続するが武田氏は歴史の舞台を去る。しかし幕藩体制の中で存続した武田一族もいたようだ。今日紹介するのは旗本の武田氏である。
埼玉県比企郡小川町上横田の輪禅寺に「武田氏一族の墓域」がある。町指定の文化財である。
上の写真は武田信実の供養塔で「輪禅寺殿玉輪一機大居士」との法名が刻まれている。寺名はこの法名に由来する。信実は武田信玄の異母弟で、天正三年(1575)の長篠の戦いで討死し恵林寺に葬られた。生前、信実のもとに篠瀬某という者が家康の命に背いて逃げ込んできた。のち許されて帰るとき、家康が鷹狩を好むことを聞いた信実は、篠瀬に鷹を2羽持たせてやった。このことで家康は信実に好印象を持つことになる。
天正十年(1582)に武田勝頼が倒されたのちに、家康は篠瀬某に命じて信実の子孫を探させ、子の信俊を召し出した。信俊ははじめ甲斐国川窪を領していたので川窪氏を名乗った。天正十九年(1591)に武州金窪に所領を与えられ、関ヶ原や大坂の陣にも参戦する。領内の横田村には父の菩提を弔うための寺を造った。これが輪禅寺である。
信俊の孫、信貞の代の寛文四年(1664)に川窪から武田に復姓し、元禄十年(1697)には所領がすべて丹波に移される。しかし、代々の墓はすべて輪禅寺に設けられた。別冊歴史読本『徳川旗本八万騎人物系譜総覧』(新人物往来社)で系譜を確認しよう。
武田兵庫
口源氏 本国甲斐
口丹波国桑田・舩井・天田・何鹿・氷上内五千三百石余
口初代信俊は、晴信の弟信実の子、二代まで川窪姓を称した
口①信俊 与左衛門
大番頭
②信雄 越前守 寛永三年相続
書院番組頭、小姓組番頭
③信貞 兵庫頭 寛永十六年相続
書院番頭、大番頭
④信喜 主膳 宝永七年相続
⑤信胤 主馬 正徳二年相続
⑥信村 越前守 元文元年相続
大番頭、駿府城代
⑦信親 河内守 安永八年相続
小普請支配、小姓組番頭
⑧信徳 和泉守 文化四年相続
西丸新番頭、西丸小姓組番頭
⑨信禄 兵庫 天保十三年相続
⑩信敬 兵庫 嘉永元年相続
口家紋=割菱 五七桐 鳩酸草
口屋敷=青山新屋敷
このうち、9代信禄までの墓は輪禅寺にある。系譜では6代信村が駿府城代にまで出世しているのが注目される。ただし、江戸期に戦国大名武田氏の名跡を継いでいたのは、信玄の二男の流れを汲む武田左京大夫家で、高家の家格を誇っていた。
御先祖様が信玄につながるが否かの違いはあるとはいえ、幾多の荒波を乗り越え甲斐源氏の流れを守った武田氏。墓域はきれいに清掃され、お参りする人に一族の誇りを伝えている。
コメントありがとうございます。武田氏にゆかりがありそうで、すてきな名字ですね。輪禅寺を訪れたのは10年くらい前ですが、穏やかで気持ちよく史跡めぐりができました。
投稿情報: 玉山 | 2016/01/22 23:13
私も川窪という苗字で曽祖母は現松本市四賀という山あいの出身地ということです。
川窪という名は珍しいのですがもしかしたら縁があるのかな?と思ったりもします。
歴史は大好きなので埼玉のお寺も機会があれば訪ねてみようと思います。
投稿情報: 貧乏旗本 | 2016/01/22 21:29