町内にある半鐘は、訓練の際にはゆっくりと、すわ一大事というときには早鐘に鳴らされる。もっとも、このところ幸いにも火災はなく、すっかり消防署まかせになって、半鐘の音を聞いたことがない。それだけに半鐘の乱打なんぞ聞こうものなら腰を抜かすかもしれない。
秩父市寺尾に「音楽寺の銅鐘」がある。
周囲に観音像が鋳造されている美しい鐘である。市の有形文化財に指定されている。この名鐘の音が美しいから音楽寺なのかと思ったら、そうではない。東日本旅客鉄道労働組合『秩父困民党ガイドブック』を読んでみよう。
大宮郷(秩父市)を一望する音楽寺は秩父霊場二三番目の寺で、松風から菩薩の音楽を感じたという伝説が名の由来となっている。
明治一七年一一月二日正午、小鹿野を制圧してこの地に立った因民軍は、斥候の柴岡熊吉の銃声を合図に、音楽寺の鐘を乱打して大宮郷になだれ込んだ。
音楽どころではない。鐘が乱打されて大宮郷制圧を目指す群衆を鼓舞したのだ。下の写真は音楽寺から見た秩父公園橋である。困民軍が渡った「武の鼻渡し」もこのあたりにあったという。
11月2日の夕刻、困民軍は郡長ら役人が逃亡した後の郡役所を占拠し、そこを「革命本部」とする。新権力の樹立である。しかし長くは続かない。憲兵隊の出動や情報の混乱があって、4日には困民軍本陣が崩壊、長野県に転進しての抵抗も9日に終了する。
困民軍の戦死者は30名を超えるという。3809名が処罰され8名が死刑となった。事件は暴動と呼ばれた。
音楽寺の境内に「秩父困民党無名戦士の墓」がある。1978年に秩父困民党決起百年記念会事業委員会が建立したものである。
事件に特別な感情を抱かない私たちは「暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」と言われてもピンとこないが、おそらくは犯罪者だという偏見への抵抗を物語っているのだろう。暴徒、暴動と呼びたいなら呼ぶがいい、我らは世の中をあるべき姿に変えたかったのだ。そう訴えたいのではないか。
理想を求めた彼らは志士であり、その行動は義挙であった。しかし事件をことさらに善悪で評価するのはやめよう。事件に関わった何千もの人々それぞれが、今何が自分にできるかを考えた末の行動であったのだ。
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