秩父事件は暴動だったのか革命運動だったのか。コップだって真上から見れば円形だが真横から見れば台形だ。同じものを見ても違って見えるのは当然だ。秩父事件から120年を記念して『草の乱』という映画が公開されたのは2004年。事件はロマンをもって語られようとしている。
秩父市下吉田に「埼玉縣警部補窪田鷹男殉職之地」と刻まれた碑がある。
この碑は現在、崖の上にあるが、当時はそこが道であったらしい。窪田警部補に何があったのか。『秩父困民党ガイドブック』(東日本旅客鉄道労働組合)を読んでみよう。
窪田巡査の碑
窪田巡査は、新志坂の緒戦で逃げ遅れ、困民軍に捕らわれた。警官の出動などの情報を求められたが、答えなかったため新井周三郎の命によって斬首された。戦前は、彦久保耕地に建てられた碑に、小学生が強制的に参らされたそうだ。
およそ学校の指導で強制的でないものはなかろう。それはよしとして、巡査が警部補になっているのは二階級特進ということか。この碑は窪田巡査の60回忌にあたる昭和18年に建てられたというから、公務に殉じた人を顕彰する意味合いもあったのだろう。
さらに詳しい様子について次のような証言がある。『秩父事件目撃者の口説』(吉田町教育委員会)を読んでみよう。
そのうちの一人などは、その阿熊の家でかくまってくれって言って、かくしてもらったん。そしたら、それを密告者があって、どうしてもおけなくなって、それで出たん。それが窪田巡査らしい。
その巡査は生け捕られ、そうして荒縄でふんじばって彦久保から、あの新志への出口、あそこんところの、ねむったの木(合歓木)にゆっつけといたという話がある。
で、それも、清泉寺の戦争、清泉寺前の斬り合いは、そこいらで、そんなことをしてたり、いろいろやってる人もあったろうが、先へ行く巡査を追っかけて。で四人(よったり)がやって来たとき、その四人が、巡査の十数人のい立ち向ったから、それで、殺された者がでる。首まで打ち落されるようなことになった話。
から、それを聞いたんで暴徒が“なんだ。俺が方が巡査に殺されたんか。いめえましい。あの巡査をやっつけろ”。こういうことになったらしい。
それで、いまじゃぁ滝上、滝上って言っているが、子の神の滝を回ったところの、右の高いところに碑ができていますが、あれは最近、わしなんどが、その、寄付なんどをして、殉職の地というので、その場所はここだということを教えるため、わしのおやじなどが行って、ここうらのようだったというんで、あそこへ建ったんです。
いまの人が見るてぇと、あんな高いところへわざわざ登って死んだのか殺されたのか、おかしいように考えるが、そうじゃぁねぇ。あれが道だったん。あの上の道を通ったのが、あれがもとの道なんだから。
それがいまじゃぁ、あんな高いところのもんになり、下の道が良くなり、いまじゃぁ県道だということだが、そういうんで。
いまの話になると、そんなところで、と思うような場所なんだが、あそこにつないでおいたやつを“なんだ、それは、その仇討ちだぞ”ちゅぅと、その暴徒のうち、そういう考えの者がいて、とうとうその巡査を虐殺したらしい。
それを見た人がある。その見た人からわしは聞いているから、それもうそじゃぁなかろうと思うんです。
そういう、どうもその、殉職と言っても、実に残酷きわまるわけだったん。つれ(仲間)が殺されたから、それで、その仇討ちを、縛っておいた巡査を虐殺するなんて、ずいぶんどうも残酷な話だったと思うんです。
戦いが進行する中での出来事ゆえ理性的な行動を求めることは難しかろうが、それにしても窪田巡査には気の毒なことであった。権力側に立つとはいえ、所詮は一兵卒、弾圧の指揮をしたわけでなく激しく抵抗してもないだろう。職務を遂行したがゆえに殺されることになってしまった。殉職である。
理不尽な世の中の変革を求めて斃れた人々の生き様は美しいが、その美しさの一方で理不尽な死を強いられた人がいたことを忘れてはならない。