中世、近世、近代と数百年間にわたって家名を存続させるのは至難の業だ。武家は歴史の大河の中で、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたる事なし、である。そんな中で争いの世を生き抜いた名家が2つある。薩摩の島津氏と奥州の南部氏である。今日は南部氏滅亡の危機の話である。
藤沢市西富一丁目の遊行寺に「南部茂時の墓」がある。
遊行寺のパンフレットには、この墓について次のように記されている。
元弘三年(一三三三)北条高時が永勝寺において自害し、その家臣南部右馬頭茂時が殉死しました。その時、茂時の家臣佐藤彦五郎らは茂時の遺骸を藤沢道場である当山にかつぎ入れ、遊行五代安国上人によって、この地に埋葬されました。墓碑には「教浄寺殿正阿清室天心大居士」とあります。
高時らが自害したのは東勝寺であろう。「南部右馬頭茂時」は『太平記』で高時が自害する場面でその名が登場する。南部氏の第10代に当たる人物である。
幕府につくか宮方につくか、北朝につくか南朝につくか、岐路は幾度も待ち受けていた。滅びゆく幕府に殉じた南部氏は歴史の舞台から消え去ってもおかしくはなかった。
盛岡市にある教浄寺(時宗)のホームページによると、第11代信長は兄・茂時の菩提のために、はじめ三戸に教浄寺を建立したという。盛岡に移ったのは江戸初期、27代で初代盛岡藩主の利直公の時である。戦国大名、近世大名に華族。華族としては伯爵に列せられた。42代利祥は日露戦争で戦死。連綿と系譜をつないだ武家の名門の現在の当主は第46代である。
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