勢力が二分された際にどちら側につくかは大問題だ。去就の如何によってはお家存続は危うい。南北朝でも関ヶ原でも数多くの大名が滅亡している。幕末とて事情は同じこと。勤王か佐幕かで大名は動揺した。もっとも両者は対立する概念ではなく、江戸時代を通じて多くの大名は勤王で佐幕であった。
しかし、薩長が倒幕の意志を固め帝を奉じ新政府を樹立すると、指揮命令を発する政権は2つとなる。薩長政権に恭順するのか、あくまでも徳川政権を支えるのか。多くの藩は時代の大勢を読んで新政府に恭順したが、内戦にまで発展した藩がある。それが結城藩である。
結城市大字結城(立町)の孝顕寺に「小場兵馬自刃之處」と刻まれた石碑がある。
結城市大字結城(西の宮)の光福寺に「水野甚四郎の墓」がある。「水野甚四郎勝澂 勝澂之妻青山氏 墓」と刻まれている。
水野と小場はどちらも結城藩の家老で、お家の存続を願い藩主へ忠義を尽くすことについては人後に落ちない人物であったろう。ただし水野は佐幕派、小場は恭順派として対立を深めることとなる。事は大政奉還から始まる。結城市発行『結城の歴史』に拠って時系列にまとめよう。
慶応3年12月9日 王政復古の宣言(幕府廃止、新政府樹立)
新政府から諸藩主に上京が命じられる
同月18日 旧幕府から江戸半蔵口門番につくよう命じられる
慶応4年1月3日 戊辰戦争始まる
同日 結城藩主・水野勝知は病気を理由に上京の猶予願いを新政府に提出する
同月10日 国家老・小場兵馬が江戸邸に行き勝知に恭順を説得する
同月11日 佐幕派の江戸詰家老・水野甚四郎を大義を乱したとして結城に帰し自宅蟄居とする
3月1日 旧幕府から勝知は上野山内警衛並に彰義隊付属指揮役を勤めるよう命じられる
同月3日 新政府から勝知に「上京に及ばず」と待機命令が出される
恭順派は「役儀赦免願い」を旧幕府に提出し勝知を結城に連れて帰ろうとする
勝知は実家の二本松藩の家老邸に入る
同月7日 水野甚四郎が結城から脱出していたとわかる
同月10日 勝知、甚四郎ら佐幕派が江戸藩邸を占拠する
同月11日 江戸の急変が結城に知らされ、勝知を廃し禊之助を擁立することとなる。小場兵馬も結城に帰る。
同月17日 勝知は彰義隊とともに小山に着陣する
交渉に出向いた小場兵馬は人質となる
佐幕派は恭順派の一掃を要求し、恭順派は彰義隊を江戸に帰したうえで帰藩するよう呼びかける
同月25日 結城城をめぐって戦闘が始まる(藩主が自分の城を攻撃!)
同月26日 佐幕派と彰義隊が勝知を擁して城を占拠する
小場兵馬はそのまま幽閉される
恭順派、危うし。時代の流れに逆行しているぞ、大丈夫なのか。続きは『結城の歴史』の本文を読もう。
結城城が佐幕派に占領されたことは、直ちに官軍に知らされた。四月四日、東山道先鋒隊参謀祖式金八郎の率いる信州須坂藩兵二小隊と大砲隊が、小金井宿に陣をしき、そこへ館林藩兵二小隊が合流した。五日朝、祖式参謀は須坂・館林の藩兵をもって、城の大手搦手に砲・銃撃を加えた。だが、城中の兵は応戦せず逃げて、戦闘は一方的に官軍の勝利となった。捕らわれていた小場兵馬も許され、大町の本陣で祖式参謀に面会し、事情を報告した。また七日、佐幕派の家老水野甚四郎が自首してきたのを取り調べ、同夜、参謀らの面前で甚四郎は切腹した。
命令があって江戸から藩領に戻った勝寛(禊之助)が、十一日に結城に入り、祖式参謀から結城城を受け取った。十四日には、家老として責任が果せなかったとして、小場兵馬は孝顕寺の祖先の墓近くで、自刃した。介錯は千種十郎左衛門であった。享年五一歳。
両家老は死をもって自らの行動の責任を取ったわけだ。武士の鑑といえようか。しかし死を美化してはいけない。藩主・水野勝知のように大正8年(1919)まで生き抜くことこそ美しいのかもしれない。大正の世から見て戊辰戦争時の自らの動きはどのように見えたのだろう。すでに遠い昔のことだったのか、それとも譜代大名としての意地だったのだろうか。
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