御落胤伝説というのがある。その子が出世できたのは落胤だったせいだというし、ばれないように証拠は残さなかったともいう。調べてみると源頼朝の御落胤との噂がある武将はけっこういるものだ。有名なところでは島津忠久、そして大友能直、さらに今日の史跡にかかわる結城朝光である。
結城市大字結城(浦町)の称名寺に「大将塚」がある。
大将とは誰か。結城朝光ゆかりの地で大将といえば、右大将となった頼朝である。日本の伝説37『茨城の伝説』(角川書店)に若干触れられている。
また立町の大将塚は源頼朝の遺髪を埋めた所といわれている。
立町ではなく浦町ではないかと思うが、大将塚とはこのことだろう。頼朝の遺髪を貰い受けたということは、やはり結城朝光が頼朝の庶子だったということか、それとも烏帽子子であるが故に、あるいは忠臣であるがために分けられたのか。
五輪塔の後ろに石塔がある。刻まれているのは「此五輪塔結城家之墓也」「結城之裔伯爵松平基則建之」の文字。はて、大将塚なのか結城家の墓なのかよく分からなくなったのだが、松平基則伯に着目したい。
結城氏の系譜は朝光を初代として連綿と続いて中世を生き抜き、18代目には家康の二男秀康を迎えた。秀康は関ヶ原後に越前に移封される。秀康の死後、結城家の家督は五男直基に継承されるが、のちに松平と称するようになった。直基を初代とする松平家(前橋松平家)で松平基則伯は13代目になる。結城家の祭祀は継承されていたのだ。
結城秀康系の松平氏は家格が高い。秀康は家康の嫡男亡き後の長子である。結城家は家祖が頼朝の御落胤だとの伝説がある。松平基則伯爵家は武門ではかなりの名家とお見受けした。
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