名族とは長く続いた家系のことだ。公家の藤原氏一族はその典型であるが、むしろ幾度もの戦乱を経験した武家にこそ、名族との冠称はふさわしい。鎌倉から南北朝を経て室町、戦国と動乱の中世において家名を存続させたことに価値がある。
結城市大字結城(浦町)の称名寺に「結城朝光の墓」がある。
結城朝光は下総に18代続いた名族、結城氏の初代である。下野の名族、小山氏の生まれで、源頼朝から下総の結城を与えられたことにより結城を名乗った。母の寒河尼(さむかわのあま)は頼朝の乳母であり、頼朝は結城朝光の烏帽子親となるなど密接な関係が築かれ、幕府内で重用されることとなる。『結城の歴史』(結城市発行)を読んでみよう。
一一九九年(正治元)十月、頼朝の死を悼んでいた朝光が、夢のお告げがあったとして、故頼朝のために「一万遍の阿弥陀の名号を唱えよう」と、幕府の朋輩に勧めた話は、前でみたところである。その言葉が朝光に危難をよび、あとでは梶原景時弾劾事件につながっていった。だがこの時の朝光は、素朴に頼朝への追慕の思いを表したに過ぎず、その心底にあったのは、浄土信仰だと思われる。
一二二九年(寛喜元)、朝光は日阿の法名をえて仏門に入り、受戒をしている。そして持仏堂を造るが、それが朝光の菩提を弔う結城称名寺になったらしい。五四年(建長六)二月二四日、朝光は八七歳で他界し、称名寺殿日阿弥陀仏という法名で、結城称名寺に葬られたと、「結城御代記」は伝えている。
文中の「前に見たところ」というのは、「名号を唱えよう」に続いて朝光が「忠臣は二君に仕えずというが、故主君の死に際して出家遁世しなかったのが悔やまれる。今の世の中は危なっかしくて、薄氷をふむようだ」と言ったことが、梶原景時によって将軍頼家に讒言されたことを指している。
朝光はすぐさま、三浦義村、和田義盛等と連携して、逆に梶原景時を弾劾することとなる。この後、建暦3年(1213)には和田氏が、宝治元年(1247)には三浦氏も北条氏によって排斥されることとなるが、結城朝光は「関東遺老」と呼ばれ重んじられた。
この石塔は「結城朝光の墓」として市指定文化財となっているが、結城市ホームページでは次のように解説されている。
称名寺の本堂南側に結城朝光の墓と伝わる多宝塔があります。もともと称名寺にあった初代朝光,2代朝広,3代広綱,4代時広の五輪塔は慈眼院結城家御廟に移されたらしく,この多宝塔は朝光から時広までの供養塔ではないかと考えられています。
結城市では10月2日を「結城朝光の日」としている。誕生日か命日かと思ったらそうではなかった。結城市ホームページを読んでみよう。
1180(治承4)年10月2日,14歳の結城家初代「結城朝光」が,隅田川のほとりで源頼朝に面会し,元服し,家臣となったことが『吾妻鏡』の中に記されている。結城の名を歴史に記させ,全国に知らせることとなった日
結城朝光はやはり結城の恩人だったのだ。称名寺の多宝塔は墓であれ供養塔であれ、名族・結城氏を偲ぶ場所にふさわしい。
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