笠置寺に行ったのは昨夏のことだ。前日に見た宇治の十三重石塔の大きさとは比ぶべくもないが、笠置寺のそれも結構大きく高さは4.7mある。周りの石が巨大すぎて大きく見えないのであった。
京都府相楽郡笠置町大字笠置字笠置山の笠置寺に「笠置寺十三重塔」がある。国の重要文化財に昭和32年に指定された。
室町前期の作とのことだが、どのような謂れがあるのだろうか。小林義亮『笠置寺 激動の1300年』(文芸社)で読んでみよう。
寺伝では解脱上人が母の供養のために造ったともいわれているが、解脱上人が建造したのは木瓦造りの十三重塔で「般若報恩塔」と称されるものであった。木瓦造りとは木で本瓦葺きを模して葺いたものである。木造の塔は元弘の役以前の寺を描いたとされる笠置曼荼羅にも描かれているので、この石造の十三重塔が解脱上人によって造られたとするのは事実に合わない。「般若報恩塔」のあった場所にこの石造の十三重塔が造られているところからみれば、元弘の役で焼失した「般若報恩塔」を後世に伝えるためにその同じ場所に十三重塔を模して建造したとするのが正確であろう。その意味でこの十三重塔が元弘の役の戦死者を弔うために造られたとする伝承があるいは正鵠を得ているのかもしれない。
十三重塔の両側にある五輪の石塔は、元弘の役に奮戦してここ笠置山に散った石川義純と錦織判官俊政の墓とも伝えられるが、これも定かではない。しかし十三重塔が上述のような動機で造られたとすると、元弘の役の勇者の墓とするのも納得がいく。
笠置寺の最盛期を創出した解脱上人貞慶が造ったのは木造塔であった。元弘の役の際の激闘で、木造塔を含め坊舎の大半が焼失するとともに多くの戦死者が出た。ならば、その後の石造塔の造立には戦死者への鎮魂の意も含められていたかもしれない。
十三重塔の両側の五輪塔は天皇方の武将の墓かもしれないそうだ。石川義純はこの奮戦により昭和3年に贈従四位を与えられた。河内源氏の出で近世に伊勢亀山藩主となった石川氏は同族だという。錦織俊政も河内の人だ。楠木正成もそうだし、後醍醐天皇を支えていたのは実に河内の武将であった。
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